#27
桐野が寿司の入る箱を開けて片眉を上げた。「ちょうど三人分あるな」と呟く。私が食べれば桐野も食べると踏んでいたらしい。そして届ける人間はちゃっかりしているということも理解していたらしい。紺野は抜かりない。
「隆二。……寿司食べていくか?」
「その言葉を待っていた!」
隆二はそう叫びダイニングテーブルの椅子に素早く座る。午前二時。身分に相応しくない高級寿司を下賤な人間で囲んだ。
「それ、どうすんの?」
「……いや。私が知りたいよ」
ソファに置いてある紙袋。その中に入る小指が話題に上がる。隆二は口いっぱいに寿司を詰め込みながら私にそう訊いてきた。小指なんてぶつ切りにしてトイレにでも流してしまえばいいのだけれど、紺野から与えられた物だと思うとそんなことはできない。紺野からの褒美だ。紺野からの愛情にさえ思える。自惚れる。隆二が言うように私は紺野に大事にされている、と。
「ってかぁ、桂木組長に覚醒剤打ったってほんと?」
「まぁな。アドレナリンが無くて緊急事態だった」
「いやぁー、さすがだねぇ。……先生怒らすのやめとくよ」
隆二のその言葉に私は小さく笑う。隆二は駆け出しのヒラだ。組長と口を利ける立場ではないし、組長の自宅の門も潜れない。そういう状況を踏まえると組長と顔を合わせた桐野はエリートコースを走ることになるのだろうか?
「庵ちゃん、ご機嫌だったよ」
私はくい、ッと日本酒を呷る。高級寿司と桐野が出してきた秘蔵の酒は私の胃袋に滑らかに落ちていく。私は不意に見つける。皿から落ち、テーブルを汚す醤油が頭上にあるライトの光でてらてらと輝いていた。所定の場所からはみ出たものは醤油だとしても目立つのだと知る。
「覚えておけ、隆二。……庵ちゃんの機嫌がよく見えるときは大抵機嫌が悪い」
「なにそのあべこべ」
車を運転してきた隆二は酒には一切手をつけず、オレンジジュースを飲んでいた。私が朝食に飲む百パーセントのオレンジジュースの紙パックが寿司の箱の隣に我が物顔で鎮座している。寿司の味を殺しているはずのオレンジジュースだが、隆二の舌はそれを受け入れている。隆二は一生子ども舌。これに賭けよう。私の言葉にけたけた笑う隆二は寿司を口に放り込む。そして「んっま!」と破顔させた。
「よく考えてみろ。組長が命を落としかけた。組員のミスも重なった。……どこに喜ぶ要素がある? 君はあまり理解していないが紺野は若頭だぞ。簡単な思考回路で生きていない」
「……」
隆二は持っていた箸をテーブルに置き数秒俯く。自らが熟考していないことに納得したらしい。そんなあからさまに項垂れる隆二を酒の肴にした。私が酒を飲み干すとすぐさま桐野が酌をしてくれる。注がれた無色透明の液体がゆらゆらと揺れていた。
「ねぇ、やっぱり聞きたい。庵ちゃんとせんせぇってどういう関係なの?」
「……諦めの悪い男は嫌われるぞ」
「庵ちゃん、多分諦めの悪い男好きだと思う」
私の言葉に上手く返してきた隆二。その言葉に、ふ、ッと軽く笑みがこぼれる。アルコールが入っているからなのか脳みそが緩んでいる。脳みそが泥濘のように柔らかい。
「もう帰られてはどうでしょうか?」
私が紺野との関係を語ろうかと逡巡していたときだ。今まで口を出さなかった桐野の言葉がリビングに投下される。水面に水滴が一粒落ちるような静寂さを孕んだそれ。だが、少量の粗略さも見受けられる。素気無いその一言はリビングの雰囲気を悪くした。
「今先生と話してるんだけど?」
「……こちらに来られたときから思っていたのですが、尋ねられてくる時間にしてはあまりにも遅く無礼です。めいさんがあなたを食卓に招いたのですから言うまいと口を閉じていましたが、めいさんを困らせるのであればお引き取り願います」
番犬のあからさまな威嚇に私はけらけらと笑ってしまう。私を挟んでテーブルに座る両者は顔に笑みを貼りつけ、見えない武器を構える。いつも乱暴な言葉を使う男から放たれた上品な文言。饒舌なそれはセクシーさを纏っている。
「と、いうことだ。お開きにしようか」
私の言葉に隆二は「仕方がない」と呟き、素早く私の家から出ていった。隆二にとって桐野は敵愾心を持つ人間に成り下がっただろう。桐野くん、と呼び、親しくひとつのテーブルで飯を食っていたはずなのに、あっさりと蹴り出された。隆二が怒りを纏いながら姿を消したことを思い出す。
私はテーブルの上に残る寿司をぱくん、口に放り込む。私を瞥見している桐野も私と同じように寿司を食べた。咀嚼の音がふたつ響く。私はまだ服というものを着ておらず下着姿だ。紫月の男根が入っていた場所より上に存在する胃袋に今度は寿司が入ってくる。
「あまり隆二をいじめるな」
「おまえが困っているようだから助けたんだ。俺に文句があるなら隆二を引き留めればよかった」
「……そうしたら君、拗ねるだろ」
「めいの家だ。めいに決定権がある」
私の家だから、私が主人だから、下賤らしく下着姿で飯を食っていてもこいつは許すのだろう。だから紫月とのセックスに乱入できたし、乱入させることを強いた私になにも言わないのだろう。……まるで、
「不感症のようだな」
「あ?」
「マグロだって言ってんだよ。面白味の欠片もない」
「……」
桐野は言葉を吐き出さないが、私の言葉が煩わしく苛付くのか
「君のことは慕っている。拾ったときから君の毅然とした態度が好きだった。ただの一般人にしては肝が据わり、激情が漏れ出ている。……だが、いつから君は私が一番になったんだ? ん?」
「おまえが言ったんだ。俺の命はめい、おまえのもんだって」
桐野は私を睥睨する。その瞳は鋭利で、私を刺し殺そうとしているようだった。
「だからって自らの考えがない人間は嫌いだ。イエスマンを飼っているわけじゃない。つまらないんだよ、今の君は。忠犬すぎるのも考えものだな」
そんな言葉を吐き出せば桐野の瞳がさらに鋭くなる。桐野はがたん、椅子を蹴り立ち上がった。言いすぎたか。初めての喧嘩は手が出るのだろうか。そう思っていたときだ。桐野はソファに置いてあった紙袋を漁り、中から指を持ち出す。
「……なら言わせてもらうが、紺野からこんなものを捧げられておまえは優越感に浸っている。なら、おまえこそあいつの忠犬なんじゃないか?」
「………、」
「俺からしたらおまえだって面白味に欠ける」
私の忠犬が私に牙を剥く。桐野は落とされた指をキッチンに持っていき、激しい音を立てながら指を細切れにする。がつん。包丁が人肉を切断する音が聞こえてきた。
「俺は紺野が嫌いだ」
吐露された言葉が指とともにトイレへ流れていく。水の排出される音が耳にこびりついた。
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