#26

 ***


「めい」

「……はいはい」


 紫月が手を振って私の家から出ていったのを見送った瞬間に背後から桐野の声が落ちてきた。私は気怠い体で桐野の方に視線を向ける。先ほど私と紫月の行為を見ていたときと変わらない冷静沈着な表情をしている。サイボーグかよ。さすがは腹に刃物を穿っても顔色ひとつ変えなかった男だ。


「腹は?」

「減った。……もー、死ぬほど空腹」


 私は下着姿のままリビングに置いてあるソファに座る。そんな怠惰な私を見下ろす桐野。こいつを拾った日に抱かれたのは正解だった。キッチンに消えていった桐野を見て煙草を咥える。フィルターを噛みながら火を点けた。私の下着姿がシルバーのライターに映る。紺野からもらったライターだ。


「こんちわー!」


 そんなときだ。玄関が開いた音がして、近所迷惑さながらの大きな声が響く。……隆二だ。はぁ。デカい溜め息を吐き出し手で顔を覆う。隆二が来るとろくなことにならない。仕事か? これから仕事なのか? 隆二に殺意が芽生える。隆二を殺したら紺野は怒るだろうか。


「あ、違うわ。こんばんわ、か。……せぇんせー」

「はいはい」

「うっわ。……先生えっろ! まじでヤッたあとじゃん。え? 庵ちゃんいるの?」

「君は私と庵ちゃんをどうにかしてくっつけたいようだね」


 今日はきちんと靴が脱げたようだ。赤髪の男がリビングに顔を出す。手になにかをぶら下げた隆二。なんだ? 臓器の類か?


「なんかね、庵ちゃんと先生ってただならぬ雰囲気というかさ、えっろいんだよね。…で? 庵ちゃんいる? 怒られたくないんだけど。お! 桐野くんじゃん」


 深夜だというのにテンションの高い隆二。キッチンから出てきた桐野を一瞥し、さらにテンションを上げた。桐野は隆二を見て一礼する。彼らの間には身分差がある。


「隆二、桐野。桐野、隆二」


 手早くふたりを紹介する。どちらが先に指を落とし、先に出世するだろうか。見ものだ。


「お生憎様。庵ちゃんはいないよ」

「庵ちゃんと先生のセックス覗きたかったー。でもラッキー。……庵ちゃんから持っていけって言われたものがあって。持ってくるの遅くなったから庵ちゃんいたら怒られるとこだった」


 隆二が出してきたものは組長御用達の寿司屋の箱だった。「ご褒美だって」そう言葉を続けた隆二はリビングにあるダイニングテーブルにその箱を置いた。


「隆二。君、今何時だと思っている? それから何時に持っていけと言われた?」

「今は……夜中の二時だね。言われたのは夕飯時かな」


 悪びれることなく笑う隆二。呆れてしまう。


「めい」


 桐野は隆二が抱えてきた袋からなにやら小さい紙袋を取り出した。それを投げ渡される。私は頭にクエスチョンマークを大量生産しながらその紙袋を開けた。指が入っていた。小指だ。丸い爪が生えている少々曲がった小指。幼いころに突き指でもしたのだろうか。指は綺麗な切断面をしている。断面から骨も飛び出ていない美しいカッティングが行われた男性の指。宙に翳して見てみてもそれはなんの変哲もない小指だった。私は第一指と第二指で誰のか定かではない第五指を持つ。隆二がここに持ってくるのが遅れたせいで、すでに硬さを持ち温度はない。


「……あー、せんせぇってやっぱり庵ちゃんから大事にされてんだ」

「どういうことかな?」


 隆二の言葉に私は眉根を顰める。なぜ、この小指がここにあることで私が紺野に大事にされているということになるのだろうか。乳白色の紫煙を吐き出しながら隆二を一瞥する。隆二は私の瞳を茶化すことなく見つめてくる。


「たしかそれ、救急キットを補充し忘れた人間の小指だよ。庵ちゃんが落としてた」

「……。あぁ、そういうこと」


 確かに私は啖呵を切った。アドレナリンを補充し忘れた人間は指を落とせ、と。あんなのただの冗談だったのに。冗談が通じない世界だということを忘れていた。

 煙草を咥えながら紙袋から出てきた小指を元の場所に戻す。小指が入った紙袋は自然の摂理で重力を纏う。

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