#20

 誰かになにかを説くことは自分自身を消耗させる。私は極道の人間ではない。ただの雇われた医者だ。なのに偉そうに誰かを悟している。無意識に極道の生き方が染みついてしまっていた。なにさまのつもりだ。

 家の中は薄暗く、夜の訪れを感じさせる。これから私たちの住む世界は活発化する。心に殺意、顔に笑顔を貼りつけて数億という金が濁流のように流れる。経済を回す歓楽街。

 仁が弱音を吐く理由も私は理解できている。何度も見てきた。そして何度も救ってしまった。死のうとした人間の応急処置をし、また汚い経済の歯車として送り出す。私は極道の人間の歯車で圧倒的強者だった。ヤクザの世界は擬似親子の世界だ。盃を交わし、組長を神として崇める擬似家族。半端者が束になっただけのクズ組織。桐野は桂木のことを塵ほど興味ないと言ったが、あれは正常な判断なのかもしれない。


「……腹減ったな」


 桐野を拾うまえの生活を忘れてしまった。私はどうトイレを掃除していただろうか。どう商売道具の管理をしていたのだろうか。いつの間にか外食は減り、家の中からカップラーメンが消えた。心なしか肌艶がいい。桐野はするっと私の人生に入り込んだ。

 桐野が帰ってくるまで寝るか。それから飯を作ってもらおう。そう考え、リビングにあるソファに身を預ける。




「……めい」

「おかえり」


 暗闇から声がした。私は欠伸を噛み締めながら声の聞こえた方向に目線を向ける。ぱちん、音が鳴り、部屋の電気がすべて灯される。私は眩しくて顔を手で覆った。


「電気点けずになにしてんだよ」

「寝てた」

「……電気くらい点けろ」

「気分じゃなかった」


 私の言葉に大きな溜め息を吐き出す桐野。近付いてくる痩躯。私の目の前に跪いた人間はこちらを怪訝そうに伺う。桐野は私の変化に敏感だ。私の頬に桐野の手が添えられる。


「お気に入り、どこかで待っているんだろ? 慰めてもらえよ」

「……気分じゃなくなった」

「さすがに疲れたか。そりゃぁ、組長が死にそうになったんだからな」


 私は桐野の大きな手に自らの頬を寄せる。猫のように桐野の手にマーキングをした。先ほどまで仁を殴っていた手はその凶暴さを捨て去り、今はあたたかく心地いいものに変化していた。そのまま桐野は私の後頭部を引き寄せ、そして腰に腕を巻きつける。抱き抱えられた。


「少し寝ろ」

「……ひとりで寝たくない」

「そばにいてやる」


 その言葉とともに寝室の扉が開けられベッドに降ろされる。そのまま桐野が布団の中に入ってきた。血液の香りがする。


「起きたら性処理してもらえ。夜は長い」


 疲れからか桐野の腕から逃げ出す元気はなかった。泥濘に沈むように桐野の腕で眠りに落ちる。



「……、ゆ、い」


 桐野に抱き締められながら睡眠を確保し、そろそろ起きようかというときだった。頭上にある桐野の喉仏が上下し、唾を飲み込む音がする。そしてそのあとに吐き出された女の名前。桐野は女の扱いに慣れていた。こいつに女がいたところで驚きはしない。だが、睡眠中に名を呼ぶほど大切な女がいたことに少しばかり驚愕する。私も睡眠の中で紺野の名を呟いていないだろうか……。

 自分の心の檻にだけ留めておきたいことは誰にだってある。それが睡眠という三大欲求を行っているときに不意に他者に知られてしまう。それは脛に傷がある人間にとって心底困ることだ。見栄とプライドの世界であるまじきことだった。どうやら人間は根本的に隠し事ができないらしい。

 私は桐野の腕から逃げ出す。簡単に解けた腕は筋肉質でこちら側に来たのが数週間まえだとは信じられないものだった。一般人が闇に染まった。それも想像より遥かに早く。


「ユイ……ねぇ」


 ユイがいるから君は生きていけるのか。生にしがみつけるのか? 極道の世界でも生きていきたいと思うのか? そこで不意に桐野のある言葉を思い出す。「好きな女など失った」セックスをしたときの言葉だ。「早急に金が必要になった」これは今朝の言葉。すべてにこのユイが絡んでくるのだろう。ユイはどんな女なのだろうか。

 私は欠伸を噛み締める。鷹揚に背中を伸ばし、素足をフローリングに落とす。桐野はユイに想いを馳せたままいまだ眠りに落ちていた。私は彼を一瞥し、寝室を出る。煙草に火を点け、スマートフォンを手に取った。時刻は二十三時。飯も食わずよく寝たものだ。スマートフォンを弄り、ある場所に電話を掛ける。


「……紫月?」

〈はぁい! めいさん、こんばんは。いつ来られそう? もう待ち切れなくてひとりで抜いちゃったよ〜〉

「私を想って?」

〈なに当たり前のことを言ってるの! そうに決まってるじゃん〉

「可愛い子だ。……今日、行けなくなった」


 私の言葉に電話口の紫月は口を閉じた。数秒、無言が続く。私はその間も紫煙を燻らせる。私の煙草を嗜む音だけが響く。


〈……どっちの対応がいい? 嫌と言うべき? いいよって言う物分かりのいい男が好き? 俺、あなたとの時間楽しみにしていた。だけどあなたに嫌われたくないからあなたが望む答えを教えて〉

「その対応がすでに物分かりのいい男だな」


 ははっと軽く笑うと紫月はまた口を閉じる。紫月がお気に入りの理由はこういうところでもあった。物分かりがいいが自らの欲も素直に伝えてくるところ。計算高いがそれを難なくこなし、計算高く見せないところ。


〈なら、嫌って言いたい。……会いたい。めいさん〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る