#17
紺野が華麗な所作で襖を開けた。そこには掛け布団を腰にかけ、布団の上に座る桂木がいた。正式な年齢は女の私が知るところではないが、五十路程度だろうと推測される白髪のダンディーな色香を放つおじさまだ。彼はこちらを瞥見していた。悠然とした桂木は着物を優美に着崩して座っている。桂木の柳眉が下がる。
「すまないね。こんな格好で。許しておくれ」
桂木の柔らかな笑みが部屋にこぼれる落ちる。死の縁を歩いたとは思えない美しさに少々安堵した。ひとまず私はこの人を殺さなかった。
「失礼いたします。めいです。桂木さん、診察をよろしいですか?」
「あぁ、よろしく頼むよ」
紺野と私、そして桐野が桂木の自室に足を踏み入れ、襖を閉じる。簡単に入れたがここはヤクザの世界で最も重要な部屋である組長の住処だ。気を抜けない。
桂木は美しいという言葉がよく似合う。深く刻まれた目尻の皺がセクシーだ。そして上に立つ者として悠然が服を着て歩いているような平然と構えている姿がなお色香に拍車をかける。修羅場は何度も潜り抜けてきただろうと臆見できる余裕。パイプ煙草が似合う味のある男だ。
私は一度桂木に頭を下げて、手首に触れる。脈拍異常なし。
「どこか出掛けるところだったかな?」
「……男に会いにいくところでした」
桂木は頭を下げた私の髪の毛を見ていつもより着飾っていることに気付いたのだろう。私の髪の毛は今、桐野のおかげで編み込みが施されアレンジされたシニヨンだ。私はふふ、っと小さく笑いながら答える。
「それは悪かったね」
はは、っと高らかに笑う桂木。優しいおじいちゃんを絵に描いたような穏やかさだ。だが、どことなく胡乱さも持ち合わせている。穏やかさで隠した悪辣さも紺野なら知っているのだろう。その低い声で舌鋒鋭く論じ、そしてどんな人間も意のままに操り、掌握するのだろう。一見優しく見える人間ほど恐ろしいものはない。
「桂木さんがお戻りになられたことのほうが嬉しいですよ。……さて、桂木さん。まずは申し訳ありませんでした。この稼業での薬物はご法度。ですが、薬物…いわゆる覚醒剤を投与する他に道はありませんでした」
ヤクザの世界で薬物はご法度だ。この場合売ることではなく自らの体内に入れることを指す。単純に販売する人間が商品に手を出してはならないという決まりだ。そして薬物の効果を身を持って知っているからこその掟でもある。
「……めいくん。君はなにか誤解しているようだ。先ほども伝えたね。君は私の命の恩人だ。シャブが与えられたことに憤慨などしていない」
「お心遣い痛み入ります」
「顔をお上げ」
深く三つ指をついていればそんな言葉が投げかけられる。私はその命令に時間をかけず顔を上げた。そこにはなぜそこまで穏やかなんだ、と訊いてしまいそうになる柔和な眼差しの桂木が存在していた。微かに芳しい香りまで漂う。香木の香りだろうか。嗜まれている様子が垣間見える。
「君はいい顔付きになったね」
「……そうでしょうか?」
「あぁ。紺野が女を連れてきたときは困惑したものだ。使えるのか、と。さて、どうしようかな、とね。だが、やはり紺野は見る目があるようだ。君は昔より凛々しい顔付きになったよ」
「ありがとうございます」
「それに君は紺野の信頼を得ているようだね。あいつが私にシャブを打つなんて相当悩んだだろうからね」
桂木は柔らかく笑いながら紺野を瞥見する。私もつられて紺野を見れば、彼は畳に膝をつき、美しい姿勢で三つ指をついていた。桂木の前だからか黒色の革手袋は脱いでいて小指が落ちている手が見えている。
「シャブの離脱症状は認識しておりますね」
「あぁ、もちろんだ」
「少量を摂取しただけとはいえ、今後どうなるかは不明です。どうぞ、ご自愛くださいませ」
「ありがとうね」
私はもう一度畳に三つ指をつく。顔を上げ、桂木から離れようとしたそのときだ。桂木が桐野を一瞥していることに気付く。
「大変申し訳ありません。紹介が遅れました。桐野と申します」
「君が拾ったと聞いているが見込みはあるのかな?」
私は桂木に桐野を紹介する。私の隣に桐野が音もなく座り、同じように頭を下げた。問われる。気紛れでこちらの世界に引き込むものではない。引き込んだ人間として後始末はできるのか。一般社会に戻すなら今だぞ、と。
「見込みはどうでしょう。見極めていかなければなりません。躾ていきます」
「……答えになっていないが、まぁ、よしとしよう。下を持つというのはどういうことかわかるるね?」
「彼の始末は私がします」
「よろしい。……桐野、顔を上げなさい」
桂木の有無を言わせぬ命令に桐野は姿勢を正す。桐野のことを肝が据わった人間だと認識していたが、桂木の前でも物怖じすらしない。精悍な顔付きで桂木を見つめている桐野。先ほどの指を落とした人間を見たときにも顔色ひとつ変えなかった。
「……ま、ここで大義だ仁義だ、と説教をするのは野暮だね。桐野、私は桂木という。よろしく頼むよ」
「はい、組長」
「さて。私は一眠りするよ。そうだ、めいくん今回のことはきちんと礼をしたい。また連絡するよ」
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