#14

 店を出ると太陽に晒される。燦々と輝く太陽より煌めきを放つ黒塗りの車が視線に入った。まるでゴキブリのようだな、とその世界に足を踏み入れている私が自嘲気味に考える。


 車に背を預け、煙草を吸っている桐野が見えた。私の姿が見えた途端に桐野は吸っていた煙草をアスファルトに捨て、革靴の底でそれを捻り潰す。


「……覚えるから教えろ。ここはなんだ? フロント企業か?」

「代表の男の名は悠。本名は覚えなくていい。紺野の債務者だ。表向きはホストクラブ。風俗営業の届けもしてあり、夜に通常通り営業をしている。だが、本来はホストクラブを隠れ蓑にした裏風俗。悠は自らのことをまだ一般人で裏社会から足を洗えると思っているだろうが、……まぁ、無理だろうな。そのうちこちら側の人間になるだろう。そういうことでいうならフロント企業だな。一度で覚えられるか?」

「あぁ」

「……私は覚えられなかったよ」


 桐野と話をしていれば、車に近付いてくるひとりの男性が見える。すらりとした痩躯に重そうな荷物を持ってこちらに寄ってきた。仁だ。


「おいおい、おまえのお気に入りはこんなガキかよ。もっといい男いただろ?」

「……桐野、まさか自分が選ばれなかったからってそんな態度か? 自分が選ばれるとでも?」

「………すまなかった」

「いい子だ。仁、乗れ」


 運転席に桐野、桐野の後ろに私が乗り、その隣に仁が乗る。黒塗りの車は法定速度を維持しながら安全にアスファルトを走っていく。


 仁は自らの太腿に大きな荷物を乗せていた。私はそれを一瞥する。紫月は私がなにを好むのかを知っている。だから紫月は荷物が少ない。私がどんなことを望んでもいいようにか仁は行為に必要なすべての道具を持ってきたらしい。


「なにか訊きたいことは?」

「……では、めいさんがされたいこと、されたくないことを教えてください。性感帯、触られたくない場所など気になることはなんでも」


 仁は一度桐野を瞥見した。私に配慮してか気まずいのかどちらかは知らないが、戸惑いながらも自身が知りたいことを訊いていく。


「首以外ならなんでも好きだよ。その鞄の中にある物がなんなのか知らないがなんでも使ってくれ。……まぁ、君は紫月が来るまでの時間潰しだがな」

「俺の方がめいさんを気持ちよくさせることができたら俺をお気に入りにしてくれる?」


 隣に座る傲慢な人間は私の膝をするり、撫ぜた。指の腹で触れるか触れないかのぎりぎりを攻める策士な指の動きだ。駆け引きをする男を一瞥し私は笑う。


「考えておくよ」


 そのときだ。スマートフォンが甲高い悲鳴を上げた。仁の手を振り払い、スマートフォンを確認する。紺野庵。その字に眉根を顰める。急用か…? 桐野が私の異変を察知したようでバックミラー越しに目線が合う。


「もしもし?」

〈めい、今どこにいる?〉


 冷静ではあるが語気に迫力のある紺野の声。紺野の背後で喧騒を感じる。なにかあったな。


「遊びに行くところですけど」

〈取りやめろ。今すぐ俺のところに来い。住所は──…


 私は紺野が言った住所を桐野に伝える。紺野がいる場所はどうやら飲食店だ。そこは組長御用達の寿司屋だった。組長になにかあったのか。


「向かいます。どういう状況か教えてください」

〈親父が意識朦朧としている。……今、意識を失った。アンタ今どこだ〉


 ピリついた空気感が電話口からも伝わる。私は桐野に急ぐように伝える。桐野は勢いよくアクセルを踏んだ。


「すぐには着かない。……体調を崩すまえになにかされたとかないの? なにか食べたとか」

〈俺らがいてそれはない。だから混乱しているんだ〉


 なにがあったかを判断することはできないようだ。だが、組長は今は嗜眠状態。体の機能が停止している。それは変えようのない事実だ。どうすればいい。


「救急キットは? アドレナリンがいいはず」

〈最近使った。無い〉


 くそ。死なせるわけには……。私は最大限に頭を回す。刺激物があれば心拍数を上げられるはずだ。


〈めい!!!〉

「覚醒剤だ。……メタンフェタミン!」

〈……なるほど〉


 紺野は感心しながらも下の人間に指示を出す。紺野の罵声が聞こえる。ヤクザは覚醒剤を持っている。覚醒剤は刺激物だ。配合を間違えなければうまくいくだろう。


「桐野急いで!」

「今急いでんだろ。話しかけるな」


 車はナビゲーションとは違う道をひた走る。桐野は土地勘があるのかハンドルをうまく捌き、右往左往しながら裏道を入っていく。トップスピードで走る車。仁はこの急な展開についてこられていないようで後部座席のシートを握り締め、顔を顰めている。


〈シャブはどのくらい必要だ?〉

「一グラムから始めよう。……生理食塩水二百ミリリットル……二百五十にしようか」

〈テキトーだな。嫌いじゃない〉

「リドカインはある? それくらいあるでしょ?」

〈……ある。なぜ必要だ〉

「そのメタンフェタミンで不整脈になったら投与して。シャブだからね、量を間違えれば死ぬ」

〈与えるまえに言うなよ〉


 は、ッと破裂音で笑った紺野。少々のアドレナリンが放出されているようで紺野の昂りを感じる。


「緊急時だから手荒くいこう。注射器を心臓に突き刺して」

〈アンタを信用していいんだな〉

「……この手法は推奨されてはいない。紺野さん、私を信じて」

〈組長を殺したら俺の指とアンタの指が落ちる〉

「信じて」


 私は受話器越しの紺野の耳に言葉を入れる。殺すわけにはいかない。紺野の指がこれ以上減るのは避けたい。

 かたん、スマートフォンが落ちる音がした。数秒経過する。私は腕時計でスマホが落ちてからの秒数を測る。覚醒剤を打ってから一分経過しても体に反応がなければ、いよいよ小指が危ない。小指だけじゃ済まないだろう。


〈……めい、よくやった〉


 三十四秒経過したときだ。紺野の声が聞こえてくる。私はその瞬間に大きく息を吐いた。今まで呼吸ができていなかったことに気付く。後部座席のシートに体を預けた。体が溶けるように弛緩していく。緊張の糸が解ける。


「賞与、今度こそ待ってます……」

〈あぁ。飴よりいいのをやるよ〉

「……約束ですよ」

〈親父が話があるってよ〉


 桐野は状況を判断できる優れ者だ。徐々に車のスピードが落ちていく。今までよく事故を起こさなかったな、と思うスピードが減速し、街並みを眺められるほどになっていく。


〈………めいくん〉

「おかえりなさい。桂木さん」

〈君は命の恩人だ……〉


 疲れた様子の掠れた声が私の鼓膜を通過する。地を這うような低い声は生死を彷徨ったあとだが、男社会に君臨している人間のそれだった。貫禄があり無意識に忠誠を誓ってしまうもの。


「いえ、それは紺野に。彼が対応しなければ桂木さんは戻られなかったでしょう」

〈……こんなときくらい自分の手柄にしなさい。だが、君を連れてきたのは紺野だったな〉

「これからそちらに向かいます。一応診せてください」

〈ありがとう。よろしく頼むよ〉

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