#13
***
頬に赤を付着させた桐野の運転する車が混沌たる繁華街の通りに停車した。夜に輝きを見せるそこは今が昼間のおかげで静寂さを孕んでいるが、こんがらがっていることに違いはない。一般常識としてホスト街として知られているこの場所は裏風俗店も鳴りを潜めるように営業しているのだから興味深い。一般人は知らない玄人だけが知る世界。
私は吸い終わらない煙草を桐野に渡す。似合わないと言われた口紅の色がフィルター部分に付着していた。桐野は後部座席から伸びてきた私の手から煙草を取り、自らの唇に挟んだ。桐野から乳白色の紫煙が浮かぶ。
「じゃぁ、私はこれで。君も最近抜いていないんじゃないか? 性欲を拗らせると面倒だぞ」
「……あんたで抜いてる」
「おや。それは光栄」
私はくすり、笑って車を降りる。昼営業をしている店の前を通り過ぎ、開店していない店の前に立つ。目線を上げ、店の前にある防犯カメラを眺めた。すると、中から黒色の長髪男性が慌てたように出てくる。
「お久しぶりですね、五木様」
「昼にごめんなさいね。紫月はいるかしら? 体が空いているといいんだけれど」
私は表向きにはホストクラブとして存在している店に入った。紺野からは悠と呼ばれているこの男はこの店の代表だ。そして紺野の債務者。店を経営し、その金をヤクザに流している。れっきとした裏社会の人間だが、ヤクザにとってはすぐに切り捨てられる駒だった。
女性をターゲットに裏風俗としても営業しているこの店はラグジュアリーで華やかなラウンジテイストの内装が施されている。高価さを感じさせながらもシンプルで洗練され、シャンデリアや光沢のある黒色の革ソファなどが鎮座していた。昼間の時間だから当たり前だが、店の中にはホストや客はおらずひっそりとしている。
「お待ちください。確認してきます」
「ありがとう。急で申し訳ないと謝っておいて」
私はくすり、笑い高価なソファに座る。悠は頭を下げてからバックヤードに消えていく。煙草に火を灯そうとしたときだ。ひとりの男性が私に近付いてくる。そして私の前に跪いた。
「お待ちになるまでなにか飲まれますか?」
「気を遣わなくていいわよ。喉も渇いていないわ」
私は男性の提案をやんわりと断る。喉が渇いていないのは事実だった。退散するだろうと思っていたその男性は「失礼します」と囁き私の隣に座る。私の手からライターを取り、それに火を灯した。私は顔を近付け、煙草の先端をその火に翳す。
「……新人さん?」
「はい。ジンと申します」
「覚えておくよ。どう書くの?」
「仁義の仁と書きます」
私はくすり、笑う。仁義の仁ね。覚え易い。
仁はどことなく性的な要素を感じさせない男だった。インテリ風に眼鏡を掛けた黒髪で清楚な男。黒髪も短く切り揃えられたテクノカット。この男が裏風俗にいるということに興味深ささえあった。私の周りにいる男はヤクザという仕事柄か雄を感じさせる人間が多い。見るからに性欲がある人間たちだ。女を愛すことに特化した、そしてそれを趣味とする男たち。
「五木めい。よろしく、仁」
「先生のことは存じ上げております。名医だと」
ふふ、っと柔和な眼差しの笑みを浮かべた仁。この世界にいるとこういった追従に晒されることが多い。縦社会ゆえの弊害だろうか。私はそれに否定も肯定もせず、煙草の紫煙を吐き出す。私の素気無い態度に仁は少々困惑したように微笑んだ。私たちの間に無言が流れる。
「……先生は──
「君は学習能力がないようだな。こういう場所で客を先生と呼ぶことがどういう意味を成すのか」
「めいさんは紫月がお気に入りのようですがそれはなぜですか?」
仁は私を下の名前で呼んだ。五木は紺野が適当につけた苗字だからめいと呼ばれるのは居心地がよかった。まぁ、紫月と初めて対面したとき彼は私を下の名前では呼ばなかったがね。
「気が利く。身体の相性がいい。それ以外に風俗で求めることはない」
私は先ほどまでよそ行きの顔を作っていたが仁と話す今はいつもの調子に戻っていた。こいつに猫を被っても利益にならない。ふわり、仁との距離が近くなる。仁がこちらに近付いてきたのだ。
「……僕、めいさんのお気に入りになりたい。どうしたらなれますか?」
「………」
私の耳元に唇を寄せ、そっと囁く仁。性欲のなさそうな人間から放たれる蠱惑的なお誘い。それは筆舌し難い魅力だ。そして私は生に強欲な人間を愛してしまう傾向にある。私にお気に入りがいると知りながら、蹴落とそうとする不遜な男。しかも自らの先輩を引き摺り降ろそうとしている。なんとも滑稽な男だ。だが、この男の行動を軽佻だと言って切り捨てられない私もいる。
「失礼いたします。五木様」
「紫月はなんて?」
私が仁に返事をするまえに悠が私に声を掛けてきた。悠は仁を一瞥したが客の前ではなにも言わない理性的な人間だった。
「申し訳ございません。ただいま出ております。紫月には早急に戻るように伝えておりますので。紫月からはいつもの部屋で待っていてほしいと」
「そう……」
他の女を抱いているのか。さて、困ったな。私は確かに紫月を気に入っているがひとりの人間に入れ揚げるほど敬虔な人間ではない。仁を見つめる。彼を見ていると紫月に敵愾心を与えたくなってくる。
「紫月に伝えてくれる? 待っていると。でもひとりで待つのは嫌だから彼をつけて。仁、紫月を待っている間私に尽くしてくれるでしょ?」
「もちろんです。めいさん」
仁は私の手の甲に恭しくキスを落とす。紳士的でまるでお姫様を扱うようなそれは無欲だと思っていた考えを一掃できるものだった。私を見上げる瞳は不埒で捕食者のそれだ。仁の眼鏡が私の皮膚に当たると、それを外したくなる衝動に駆られる。この人畜無害は私をどう抱くのだろうか。
「では、めいさん。僕、用意する物があるので──…
「表に車を置いてある。そこで待っているから早く用意をしてくれ。私は気が短い」
ホテルで会いましょう、と言われるまえにその言葉を遮る。仁は少々悩んでいたが思い切りがいいようで頷いた。私は仁のその頷いた顎を持ち上げる。「もう一度言う。私は短気だ。紫月に待たされると思っていなかった。この意味がわかるな?」と仁にだけ聞こえるように囁く。
「承知いたしました」
「……よろしく。悠、急に来て悪かったわね」
「いえ。紺野さんのところの五木様ですから、お気になさらないでください。……紺野様によろしくお伝えください」
「えぇ」
私は仁を一瞥し、ソファから立ち上がる。私はこの世界に一銭も金を落としていない。紺野さんところの五木である私はその立場を存分に利用していた。紺野から「味見程度ならしてもいい」と言われているのだ。
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