#12
桐野がいい子に待っていてくれたら家に鍵を掛けなくてよかったのに…と内心で悪態を吐く。誰ひとり殺せない身分としては家に鍵を掛けることは少々の懸念材料だった。人間、誰しも応急処置はできる。縫合ができなくても、ガーゼで圧迫止血を行うことは裏社会の人間でなく一般人でもできるだろう。私が外出していても、鍵が開いていれば勝手に入り止血をすることができる。そのあと私が傷を治療すればいい。玄関が開いておらず治療する間もなく死んだ。私にとってそれが一番怖いことだった。
長時間昼寝をしてしまったらしく、玄関を出れば幼稚園児とその子の母親らしき女性が家の前の通りを歩いていた。母親はこちらを一瞥したが慌てたように目線を逸らす。そして幼児を抱き抱え、一目散に消えていった。私は母親に抱っこされながらこちらを見る幼児に軽く手を振る。手を振り返してくれた幼児。「やめなさい!」と悲痛な小声が聞こえた。子どもには難しいことが世の中にはあふれている。触らぬ神に祟りなしだ。親が私との接触を拒むのであればなおさらのこと。
私は紫煙を吐き出す。子を成せる行為をするまえに子を見るのは萎えるな。それほど昔ではないが、父と母が交わっているのを見たことがある。あれは神聖なものではなかったし、私が今していることもそれではない。女は子宮があるから母性があると思っている奴が多いが、女だって膣で快感を得たいだけのときもある。
子を裏社会の人間から守り、女の務めをしっかりと果たし妊娠した女性を見ると少なからず疎ましく思う。卑屈にはならないがそれが本来の形のように見えるのだ。そして自分がしていることの醜さを痛感する。
物思いに耽っていればクラクションが鳴る。目線の先には昼間の太陽に照らされ黒く光る車。セダンのそれは他者を寄せつけない裏社会の威嚇にも見えた。
「どうした?」
「いや。なんでもない」
私は車に乗り込み、桐野に目的地の住所を教える。当然だがそこは猥雑な繁華街だ。車は安全に動き出す。今までは自らで運転していたが、今や私も紺野と同じように後部座席に座っている。偉くなったものだ。目的地に向かって優雅に走る車。車窓からコンクリートジャングルを眺めていれば車が急に動きを止める。
「めい、こいつ知り合いか?」
「……どう見てもヤク中じゃないか」
どうやら停車した原因は車の前に飛び出してきた男のようだ。この車の威嚇をもろともしない人間は頭が狂っている。
「実地試験だな。桐野、君は強いか?」
私は紫煙を撒き散らしながら桐野に確認と挑発をしてみる。バックミラー越しに目線が絡まった。桐野は随分と凛々しい顔をしている。そして無言のまま運転席の扉を開けた。運転席に張りついて、なにかを呟いていた薬物中毒の男は桐野が勢いよく扉を開けたことにより体勢を崩し、アスファルトに腰から転がる。私は高みの見物に、と煙草を唇に咥えながら後部座席のシートに体を預けた。
ジャンキーは偏に社会の底辺だ。辛いことがありました、悲しいことがありました、だから薬物に手を出しました。学校の先輩に勧められました。こんなはずじゃなかったんです。そんなことを理解できるほどこちらの世界は甘くない。どんな事情があれ薬物に手を染めた人間の骨の髄までしゃぶり、金を巻き上げる。金を運んでくるから大切にするが、だからといって軽蔑していないわけではない。私は父と母を憎んでいる。紺野に拾われるまえ私は虫ケラだった。ジャンキーは社会の底辺だ。
桐野がヤク中を殴る音が聞こえる。彼に「強いのか?」と訊いたが、ヤク中相手に強いもくそもないな、と後から気付く。私が両親を殴り殺せたんだ。桐野がヤク中を殴るなど赤子の手を捻るようなもの。煙草を吸いながら桐野の行為を一瞥する。殴られる側から殴る側になった男。季節が移り変わるように必然的にポジションを変えた。
私は赤いピンヒールで地面を蹴り車から降りる。道路には、か細い声で何度もなにかを謝る男が伸びていた。幻覚を見ているのか、桐野に赦しを乞うているのか。
中学生のとき、学校で『薬物乱用防止啓発ポスター』を見た。その手の授業も受けたが、学校が信用ならないと勘付いたのはそのときだった。ポスターに描かれているように瞼が落ち窪み、ミイラのように痩せこけるなど死ぬ寸前の重篤者だけであり、薬物と共存していれば見た目など健康な人間とさほど変わらない。私の両親の外見は健康そのものだった。
「桐野、老婆心で訊くが、君はこの世でなにが欲しい? なにを成し遂げたい?」
「……」
アスファルトには血が弾け飛んでいる。拳が見事に赤色に染まる桐野を見つめた。桐野はいたって冷静な顔付きで頬に飛んだ血を拭う。手が血塗れなことに気付いていないのか、拭いた頬は余計に血が付着する。先ほど見た親子を思い出した。私を人間として扱わなかった母親。私たちを下賤で関わりたくない人間だ、と切り捨てたあの人。私たちは爪弾きにされる人間だ。だからこそ強くなければならない。
「この世界は唯一下剋上ができる場所だ。力が物を言い、実力で這い上がれる。経済力も家庭環境も意味を成さない。人種も年齢も関係ない。生きるか死ぬか。求められるのはそれだけだ」
私はこれを理解し随分生き易くなった。
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