#11

 一眠りして目が覚めると忠犬が足元にいた。紺野と同じく美しい姿勢で椅子に座る桐野。布団の中から彼を盗み見れば、なにかの本を読んでいる様子だった。紺野からもらう小遣いは娯楽に消えることが多かった。ヤクザが働いた汚い金で本を買う。それが私の日常だった。桐野は私が購入した本を読んでいる。


 この診察所はヤクザお抱えだが、だからといって毎日怪我人が来るわけではない。ここは日本だ。最低限の安全は保証されている。今みたいな少しばかりの余暇はある。


「……起きたか?」


 ぱたん、本を閉じた麗人がこちらを見つめる。本を読んでいたからか髪の毛が少し崩れていた。髪をかきあげる桐野から漏れる色気。私は溜め息を吐く。忠犬は仕事ができる奴だ。サイドテーブルには灰皿とシガレットケース、そしてペットボトルが一本置かれていた。


「君は褒められたくて仕方がないみたいだな」

「……嫌な言い方だ」

「わかった。言い方を変えよう。そんなに気を遣わなくていい」

「気を遣っているわけじゃない。ただ、……ここでの生き方をまだ理解できていないだけだ」


 なんとまぁ、可愛い坊やだこと。私はくすり、笑ってペットボトルのキャップを外す。中に入っている硬水を喉に伝わせた。 


「なぜこんな場所で本を読んでいる? 別に他の場所にいたっていいんだぞ」

「……不測の事態が起きたときめいを守れない。あんたに拾われた命だ。あんたのために使う」

「頭の固い奴だ。面白味のない奴と言われないか?」


 私は再度、桐野を笑いベッドを出る。そのときペディキュアが剥げているのが見えた。この忠犬に塗らせるか。家事が上手いところを見ると女の支度を手伝うのも慣れているだろう。


「少し出てくるよ」

「買いものなら行ったぞ」

「……野暮用だよ」 


 私は欠伸を携え、部屋着を脱いでいく。下着姿のまま部屋を移動しクローゼットの前に立つ。不意に気配を感じ背後を振り向けば、長身の男が立っていた。私の脱ぎ散らかした服を持つ桐野だ。


「どこへ行く?」

「君がついてこられない場所」

「……」


 眉根を顰める男。不服そうなその姿にふわり、笑いが込み上げる。私はブラジャーとショーツを脱ぎ捨て、桐野の前で裸になった。脱いだ下着を彼に渡し、クローゼットを開く。  


「君が私を抱くとしたらどの下着が好みだ?」


 クローゼットの奥に引き出しが置いてあり、そこには色とりどりの下着が入っている。桐野は私を一瞥してから一枚の下着を抜き取る。縁取られたレースが印象的な黒色の蠱惑的な一枚。 


「……君の好みを覚えておこう」


 私は桐野が選んだ下着を身に着ける。その上にベーシックな形のトップとジーンズを身に纏った。 


「それでどこに行くつもりだ?」

「風俗」

「……は?」


 桐野は瞠目した。その瞳は真ん丸く、まるでラムネ瓶を彩るビー玉のようだった。殴る紺野を止めたおかげで桐野のこのビー玉を死守できた。拾った犬が可愛く見えてしまう現象を親バカと言うのだろうか。こいつにいたっては元から端正だったが、鼻が少々曲がっているのでさえ色気に見えるのだからずるい男だった。


「紺野は女性風俗にも手を出していてな、まぁ、そこにお気に入りの男がいるんだ」

「……おまえなら風俗じゃなくてもいい男がいるだろう」

「馬鹿言え。ヤクザの色になるより、風呂に沈められた人間と遊ぶほうが楽しいに決まっているだろう」

「……、」

「君が気に食わない顔をしたところで私を止められるわけじゃないんだ。いい子にして待ってろ」 


 私はスマートフォンをジーンズのポケットに忍ばせる。今はスマートフォン一台ですべてのことができる世の中だ。だが、ヤクザはそこら辺に無頓着。裸の札束を大量に置いていく。だから私の野暮用に鞄は必須だった。

 素足でフローリングを歩き、洗面台に移動した。棚に入っている化粧品を取り出す。私はあまり化粧が得意ではない。好きでもなかった。母が決まって化粧する日は薬物を買いに行くときだった。化粧にあまりいい印象を持っていない。また母から化粧を習ったこともないのだ。女であることを象徴する化粧はこの世界に入ってからなおのことしなくなった。


「なんだ? 背後に立たないでくれるか」

「俺も行く」

「……君は男色家だったか?」


 寝たおかげで私の髪の毛はぼさぼさだった。桐野は私の乱れたシニヨンからゴムを解き手で髪を梳く。紺野からの小遣いで買ったシャンプーのおかげで艶ややかな髪の毛は寝癖というものとは無縁だった。桐野はまたも華麗な手捌きでシニヨンを作り上げる。素早すぎて気付かなかったが、編み込みが施されていた。おくれ毛を出した桐野に私は確信を持つ。こいつには妹がいるはずだ。 


「この世界で生き残れるならなんだってするが男色家ではない」

「なら、ここで待て」

「譲らない。送迎だけでもさせろ」


 私は派手に溜め息を吐く。強気な態度の桐野にほとほとうんざりしている。この会話さえ煩わしく「勝手にしろ」と小さく呟いた。

 私はファンデーションを塗り直し、口紅を引く。


「めい。あんた、その口紅似合わねぇな。……紺野さんの趣味か?」

「紺野は私など興味ないし、それにこれは私が買った。下の唇⚫︎⚫︎⚫︎と色を同じにしている」

「なら、なおさら買い換えろ。あんたの下はもう少しピンク色だった」


 今度は私が瞠目する。今度、桐野を連れて買いものに行こうか。使い勝手がよさそうだ。


「車持ってくるから玄関で待ってろ」

「……はいはい」


 桐野は車の鍵を持ち出ていく。……なにか仕事を与えなければつけまわされるな。私は溜め息を深く吐いた。


 私は今、男とそういうことをするのにはお粗末な色気のないベーシックな服を着ているが、靴だけはセックスアピールをしてみた。口紅、臓腑、血を彷彿とさせる鮮赤。その赤色の十二センチメートルあるピンヒールに足をねじ込む。白衣を脱いだ私は文字通りようやく仕事から解放される。


 煙草を唇に挟む。桐野が近くにいないため自らで先端に火を灯した。じ…、橙が色付いたのを確認して家を出る。シガレットケースもライターも紺野が用意してくれた物だった。



 せっかくならいい物を知りなよ。



 そう言って紺野は私の人生を豊かにした。この一戸建てという檻を楽園に作り上げた。私は紺野のお人形としてこのエデンに住まうだけだ。


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