#10
「それで? どうしたんです? こちらに来るなんて久しくないですか?」
「可愛い子の顔を見たいという理由以外になにか必要かな?」
「……どーせ、それだけじゃないんでしょ」
「わかってるじゃん」
ははっと笑う紺野は「このだし巻き卵美味いな」と呟いた。桐野がテーブルの横に直立不動で立ちながら「ありがとうございます」と頭を下げる。
首筋にある創傷の痕を隠すために入れられた蛇の刺青。紺野が卵焼きを嚥下すると、その蛇は生きているかのごとく動く。紺野は肉を噛み切る口がもうひとつあるらしい。蛇は紺野の首に住んでいた。
「なにをすればいいんです? また腹裂きます? それとも死体でカヌーでも作ります?」
「今回はそんな物騒じゃないよ。……会食」
「一番嫌ですよ」
私は眉根を顰めながら紺野を睥睨する。あからさまな私の厭悪を気にも留めない紺野。語気こそ柔らかいが盤石な強さで私を見つめてくる。そんな紺野の焼き鮭を解す手付きはエロティックで高潔さを孕んでいた。
「仕方ないだろ。アンタが新しい犬を飼うからこうなる。盃を交わすまではいかないにしろ会食に呼ばれたとなるとアンタは断れないはずだ」
「……上が桐野を見たいと言っていると?」
「それは建前だろうな。上はアンタに会いたいんだろ」
私はその言葉にシリアルをがりがりと噛む。こっちは裏社会の人間だとしてもヤクザじゃないんだ。半グレどもの悪辣な会食になんて出たくないんだよ。……などとは口が裂けても言えない。
「アンタは俺のお気に入りだが俺だけのお気に入りってわけでもない」
「と、言いつつ私がなにかヘマをしたら沈めるんでしょ?」
「当然だろ」
ははっと笑う紺野。どこまでいってもアンダーグラウンドだ。私は溜め息をひとつ吐き、再度口の中にシリアルを放り込む。
「小遣いは足りているか?」
「足りてない。全然足りない」
会食に行きたくない私の嫌味など瑣末なことらしい紺野は懐から一等高価な財布を取り出した。焼き鮭が綺麗に骨だけになった皿の隣に札束を置く。
「会食用の服はのちほど下の者に送らせる。アンタの犬は飼い主のアンタが用意しろ。顔はいいんだ、身長もある。それなりのスーツを買ってやれ」
「私、紺野さんが選んだ服しか着ないから」
「……俺に忠実ないい子だ」
紺野はふ、っと柔らかく笑い、椅子から立ち上がる。仄かに血液の香りが鼻腔を抜けた。
「桐野、アンタの飯は美味いな」
「ありがとうございます」
「……またな、めい」
若頭となると暴力性だけでは下はついてこない。面倒見のよさを嘘でも醸し出しはじめた奴は出世する。
紺野が消えたリビング。私の口からは大きな溜め息があふれ出る。口先では悪態を吐いたり、茶化したりできるが芯の部分では紺野を怖がっている自分がいる。彼の雰囲気はやはりアウトローのそれで、畏怖してしまうのだ。彼に飼われている私は彼に逆らえない。緊張が緩み体が弛緩していく。それとともに眠気が襲ってくるのだ。
「めい。寝るならベッドに行け」
「……ここでいい。あー、疲れた」
私はテーブルに体を乗せ突っ伏す。桐野は私の隣で大きな溜め息を吐き落としながら、紺野の食器を片付けていく。テーブルには死んだ煙草が乗る灰皿と分厚い札束というなんとも物騒な物だけが残った。
「桐野、立ちっぱなしで疲れただろ。片付けなんてあとでいいから座りな」
「そういうわけには…」
「こういうときだけいい子ちゃんか? いいだろ、座れ」
私はテーブルに突っ伏しながら桐野を眺める。紺野が言うように家事ができる男は尊敬に値するな。桐野は自前なのかワイシャツにスラックスを合わせた、家事には不向きな物を着ている。どうしてヤクザはこうも動きづらい格好をするのだろうか。私の視線に再度溜め息を吐いた桐野は紺野が座っていた椅子に腰掛ける。
「なぜ会食が嫌なんだ?」
「君は豪勢な物を好きなだけ食べられるとでも思っているのか? 楽しく話をするだけだとでも?」
「……」
「どこぞの誰かの気を削がないようにするだけでも腹が減る。腹が減るのに腹が減ってないみたいな顔をしなければならない。それに男社会に女が放り込まれるわけだ。考えてみろ、くそだろ」
桐野は「なるほど」と呟いて嗤う。麗人が誰かを、そしてなにかを見下して笑うのは迫力があっていい。
紺野は私が誰かのお気に入りみたいに言っていた。闇医者としてか女としてかどちらかは定かではないが私の評判はいいと聞く。私がなにかヘマをしたら沈められるより先に身売りだな。誰かの性処理機にでもなるのだろう。
「そーいやぁ、訊いていなかったね。君、なぜ腹に薬物を入れたんだ?」
「早急に金が必要になったんだよ」
桐野は紺野が置いていった分厚い札束を見つめる。世の中やはり金か。金で人生詰む。大抵そんなものだ。
「その金持って逃亡するか?」
「……めいはそれを望んでいるのか? おまえがやって欲しいならやってやるよ」
「君は私に似て生意気だな」
この話はなにも意味はなくて、ただ桐野で遊んでみただけだった。ふ、っと小さく笑う桐野は椅子から立ち上がり、私の体を抱き抱える。
「仕事がないうちは寝てろ」
「……君、面倒見がいいな。妹か弟でもいたか?」
桐野からの返答はなかった。
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