#09

***


「……めい、めい!」

「き、み…いつから私のことを呼び捨てするようになったんだぁ?」

「おまえが結構駄目な人間だって気付いたときから」

「……」

「起きろって言ってんだよ」


 勢いよく布団が剥がされる。そのせいでうつらうつらとする視界がハッキリしていく。だが、再度瞼が重くなっていくのだから人間の睡眠欲は興味深い。桐野が私の目の前に膝を折り座る。ベッドの上に座る女とベッドの下に片膝を曲げて座る男。呼び捨てにされようと主従関係はまだ保てているようだ。


「おまえ、今酷い有様だぞ」

「……なんでもいい。叩き起こすな…」

「めいに客が来てる」


 桐野は不作法にベッドに上がってきて私の髪の毛を撫でた。最近、桐野の私の髪の毛を梳かすこの行為に慣れてきてしまっていた。桐野は妹がいたのか、女の髪の毛の扱いに慣れていた。ま、端正な顔立ちだ。身内ではない女から習ったのかもしれない。くるり、簡単に私の髪の毛をシニヨンに結った桐野。手際がいい。私はまだ半分寝ていた。 


「帰らせろ…」

「んなわけにいかねぇんだよ。いい加減起きろ」


 私はサイドテーブルに置いてあったシガレットケースを無意識のうちに手繰り寄せ、欠伸を噛み締める唇に押し込む。かちり、背後からライターが翳される。


「随分と飼い慣らしているようだ、めい」

「……っ、」


 思わず目が見開かれる。威圧感さえ纏っている涼やかな声が私の鼓膜を揺らした。恐る恐る声がした方向に目線を動かす。寝室の扉に腕を組んでもたれかかっている紺野が見えた。


「どうやらアンタの犬は従順だが主人の起こし方だけは慣れていないようだな」 


 その言葉の端々から、俺の声では起きられるだろ? という意味が含まれている気がしてならなかった。まるで、俺の声で起きられるいい子だな、と言われている気になる。確かに桐野の声には起きられなかったが、紺野の声では起きられる。睡眠の神秘性を感じる。ふ、っと華麗に笑う紺野の表情は寝起きには眩しかった。


「おはよう、めい」

「……おはよう。紺野さん」

「アンタの犬は飯も作れるのか。ご馳走になっているよ」


 ふらり、寝室の扉から消えていく紺野。姿が見えなくなった瞬間、私は桐野を睥睨する。桐野は溜め息をこぼした。


「起こしなさいよ!」

「……何度も起こした」

「紺野さんが来ているなら拳銃使ってでも起こすものなんだよ!」

「承知しました、めいさん」


 再度、溜め息を吐いた桐野は白々しく私にさん付けをした。


 桐野とセックスをしてから数週間が経っていた。そして彼の腹の傷が閉じてから数日が過ぎ去った。紺野がここに顔を出したのは久しい。私は紺野が用意した服を桐野に着せてもらい、寝室を後にする。リビングには朝食を食べる紺野がいた。靴をきちんと脱いだスーツ姿の男は美しい姿勢で椅子に座り、美しい所作で朝食をとっている。テーブルにはアニメの世界かよ、と笑ってしまうような立派な朝食が並べられていた。卵焼き、焼き鮭、納豆、味噌汁。それはすべて桐野が紺野のために特別に作ったものだということはすぐにわかった。


「めいさん。シリアル? コーンフレーク?」


 桐野はガラスボウルを持ち出し、こちらを見つめている。私の朝食はいつも軽い。私はシリアルを指差し、紺野の前に座る。私の唇は煙草を挟んでいる。それを一瞥した紺野は目線でテーブルの上に存在する灰皿を指した。無言の「潰せ」の合図に不服ながらも灰皿に煙草を押しつけた。煙草から生き絶えた紫煙が上がる。


「アンタ、こんな豪勢な朝食作ってくれる男がいながら食べないとか酷い奴だな。愛想尽かされて出ていかれるぞ」

「……もしこの結婚が破綻したら夫を殺してくれますか?」


 紺野はまるで私たちを夫婦のように扱うから私もその冗談に乗ってみる。ふ、っと小さく笑う紺野は「考えておいてあげる」と続けた。


「アンタ、名は?」

「……桐野と申します。紺野さん」

「俺が聞いてる名と違う」


 ことり、シリアルが入ったガラスボウルが私の前に置かれた。シリアルの上には牛乳ではなくヨーグルトが乗る。シリアルが牛乳でヒタヒタになった感触が苦手、ということを桐野はすぐに覚えた。家事のすべてを担うように躾けたつもりはないが気付いたときには朝、ヨーグルトが乗ったシリアルが置かれるようになっていた。


 桐野は私をちらり、一瞥する。その瞳は紺野に怖気付いているものではない。私を主人とし会話の許可を得ているものだった。忠犬だ。私の教えがいいというわけではなく、こいつのポテンシャルがずば抜けていたのだろう。


「めいさんに名付けていただきました」

「……桐か鳳凰、どちらがいいと訊いたら桐がいいと言ったのはこいつだがな」


 私はスプーンでシリアルをがつがつ混ぜる。ざくざくと耳に心地よい音が聞こえる。その音の合間に紺野のははっと笑う声が聞こえてくる。私は目線をガラスボウルから紺野に移した。


「なるほど、ならアンタは冬生まれかな?」

「はい。そうですが…」

「めいも改名したらどうだ? 杜若かきつばたとかに」

 心底愉快そうに笑う紺野。私は五月に生まれたからめいと名付けられた。ラリッた母がそう言っていたのだ。クスリでおかしくなりながらも子どもに名前をつけるということは忘れなかったのは賞賛に値する。「あんたが女でよかった。男でめいとか趣味じゃないわ」と母は付け加えて言っていた。


「親がギャンブルにまで手を出していたら私の名は杜若でしたね。めいでよかった」


 生まれてくる子の性別を知らなかった親は醜い。けれど、花札から名前を取るような親でなくて心底よかったと思う。

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