第10話 彼女のいない世界

 10月26日。


 ループの外。


 だが──


 詩織は目を覚まさなかった。


 夢の中。


 詩織は白い空間にいた。


 上も下も、境界がない。


 ただ、白い。


 そこに──


 声が響いた。


「詩織」


 詩織は振り返った。


 誰もいない。


 だが、声は続いた。


「あなたは、ループを抜け出した」


「誰?」


 詩織は尋ねた。


「私は──この物語の、語り手」


 声が言った。


「あなたを、何度も殺した者」


 詩織は息を呑んだ。


「あなたが──」


「そう。私が、あなたを三日間のループに閉じ込めた」


 声は続けた。


「あなたが、自分の罪を思い出すまで」


 詩織は拳を握った。


「なぜ?なぜ、私を苦しめたの?」


「苦しめるため?違うわ」


 声が笑った。


「あなたを、救うため」


 詩織は理解できなかった。


「救う?何度も殺すことが?」


「あなたは、自分の罪を忘れていた」


 声が言った。


「梨花を傷つけたこと。家族を苦しめたこと。全てを、封印していた」


 詩織は黙った。


 声は続けた。


「そのまま生きていたら、あなたはいつか──本当に、誰かを殺していた」


 詩織は震えた。


「違う。私は──」


「違わない」


 声が断言した。


「あなたの心の闇は、深かった。罪悪感を抑圧し、他者を憎み、自己を正当化していた」


 詩織は何も言えなかった。


 声は続けた。


「だから、私はあなたをループに閉じ込めた。何度も死ぬことで、あなたに気づかせるために」


「何に?」


「自分の罪に。そして──自分を許すことに」


 詩織は膝をついた。


 白い床に、座り込む。


「私は──気づいたわ」


 詩織は呟いた。


「自分の罪に。そして、自分を許した」


「そう。だから、あなたはループを抜け出せた」


 声が言った。


「おめでとう、詩織」


 詩織は顔を上げた。


「なら──もう終わり?私は、普通に生きられる?」


 沈黙。


 やがて、声が言った。


「それは──あなた次第」


「どういうこと?」


「ループは終わった。でも──」


 声が続けた。


「あなたの心の闇は、まだ消えていない」


 詩織は息を呑んだ。


「あなたが本当に変わらなければ──いつか、また同じことを繰り返す」


 詩織は立ち上がった。


「なら──私は、どうすればいい?」


「それは、あなたが決めること」


 声が言った。


「でも、一つだけ言えることがある」


「何?」


「あなたが本当に変わりたいなら──」


 声が囁いた。


「一度、死ななければならない」


 詩織は凍りついた。


「死ぬ?」


「氷室詩織として、死ぬのよ」


 声が続けた。


「全ての記憶を手放す。全ての過去を忘れる。そして──新しく、生まれ変わる」


 詩織は震えた。


「それって──」


「自分を、消すということ」


 詩織は考えた。


 記憶を失う。


 自分が誰か、何をしたか、全てを忘れる。


 それは──


 死ぬことと、同じ。


 だが──


 声が言った。


「それが、唯一の方法。あなたが本当に変わるための」


 詩織は目を閉じた。


 深呼吸をする。


 そして──


 決断した。


「分かったわ」


 詩織は言った。


「私は、消える」


 白い空間が、光に包まれた。


 詩織の体が、透明になっていく。


 詩織は自分の手を見た。


 消えていく。


 詩織は微笑んだ。


「さようなら、氷室詩織」


 彼女は呟いた。


 そして──


 消えた。


 現実世界。


 10月27日、朝。


 氷室家の屋敷。


 ベッドで、一人の女性が目を覚ました。


 彼女は起き上がった。


 周囲を見回す。


 見知らぬ部屋。


 見知らぬベッド。


 女性は混乱した。


「ここは──どこ?」


 彼女は立ち上がった。


 鏡を見る。


 映っているのは──


 美しい女性。


 だが、彼女は自分の顔を見て、驚いた。


「この人は──誰?」


 ドアがノックされた。


「お嬢様、朝でございます」


 使用人の声。


 女性は戸惑った。


「お嬢様?私が?」


 ドアが開き、執事が入ってきた。


 彼は女性を見て、一瞬、顔をこわばらせた。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


「私は──」


 女性は混乱したまま言った。


「私は、誰?」


 執事は驚いた顔をした。


「何を仰っているのですか?あなたは、氷室詩織お嬢様です」


「詩織──」


 女性は自分の名前を繰り返した。


 だが、何も思い出せない。


 朝食の席。


 詩織は家族と向き合っていた。


 父、母、妹。


 三人とも、詩織を不安そうに見ている。


「詩織、本当に何も覚えていないのか?」


 父が尋ねた。


 詩織は首を横に振った。


「ごめんなさい、何も──」


 母が口を開いた。


「医者に診てもらったほうがいいわ」


 妹・梨花が詩織を見た。


 その目には──恐れ。


「お姉ちゃん──」


 梨花は囁いた。


「本当に、覚えてないの?」


「ごめんなさい」


 詩織は謝った。


「あなたが誰かも、覚えてないの」


 午後、詩織は医者に診てもらった。


 診察室で、医者は詩織に尋ねた。


「何か、思い出せることはありますか?」


 詩織は首を横に振った。


「何も。ただ──」


 詩織は言葉を探した。


「怖いんです。みんなが、私を見る目が」


 医者は頷いた。


「詩織さん、あなたは逆行性健忘症です。過去の記憶を失っている」


「治りますか?」


「時間が経てば、思い出すかもしれません。でも──」


 医者は真剣な顔をした。


「無理に思い出そうとしないでください。脳に負担がかかります」


 詩織は屋敷に戻った。


 自分の部屋に入る。


 見知らぬ部屋。


 だが、ここが「自分の部屋」だという。


 詩織は部屋を探索した。


 本棚、机、クローゼット。


 そして──机の引き出しに、ノートを見つけた。


 開く。


 そこには、文字が書かれていた。


私がしたこと:


・梨花を階段から突き落とした


・記憶を封印し、罪を忘れた


・家族を疑い、排除しようとした


・自分を被害者だと思い込んだ


 詩織は息を呑んだ。


 これは──私が書いたもの?


 詩織は読み続けた。


私がすべきこと:


・罪を認める


・謝罪する


・償う


・……死なない


 詩織はノートを閉じた。


 手が震えていた。


「私は──何をしたの?」


 夜、詩織は一人、廊下を歩いていた。


 屋敷は静かだ。


 詩織は階段の前に立った。


 大きな階段。


 なぜか、ここに立つと──


 胸が痛い。


 詩織は階段を下りた。


 一段、一段。


 そして、階段の下に立った。


 床を見る。


 そこに──


 かすかに、染みがある。


 血の、染み?


 詩織は膝をついた。


 床に手を触れる。


 冷たい。


 そのとき──


 記憶の断片が、フラッシュバックした。


 幼い少女。


 階段を転がり落ちる。


 血が流れる。


 そして──私の手。


 押した手。


 詩織は叫び声を上げた。


「やめて!」


 だが、映像は続く。


 冷たい目をした少女。


 それは──私?


 私が、妹を──


 詩織は床に倒れ込んだ。


 呼吸が荒い。


 汗が流れる。


「私が──私が──」


 詩織は泣いた。


 何も覚えていないのに。


 何も知らないのに。


 ただ、罪悪感だけが──残っている。


 階段の上から、声が聞こえた。


「お姉ちゃん」


 詩織は顔を上げた。


 そこに──梨花がいた。


 詩織を見下ろしている。


 その目には──


 恐れと、悲しみ。


「お姉ちゃん、思い出したの?」


 詩織は何も言えなかった。


 梨花は階段を下りてきた。


 詩織の隣に座る。


「お姉ちゃんは、私を殺そうとしたの」


 梨花が言った。


「10年前、ここで」


 詩織は震えた。


「ごめんなさい」


 詩織は囁いた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 梨花は詩織を抱きしめた。


「でも、お姉ちゃんは変わったの。ループの中で、何度も苦しんで」


 詩織は梨花を見た。


「ループ?」


「お姉ちゃんは、三日間を何度も繰り返してたの。死んでは、生き返って」


 梨花は涙を流した。


「それで、やっと自分の罪を認めた。そして──」


 梨花は詩織の頬に触れた。


「自分を消すことを選んだの」


 詩織は理解した。


 私は──


 記憶を手放すことを選んだ。


 自分を、殺した。


 氷室詩織という存在を、消した。


 だから──


 今の私は、誰?


 翌日。


 詩織は屋敷を出た。


 小さなバッグを持って。


 家族に別れを告げた。


「私は、旅に出ます」


 父が心配そうに言った。


「詩織、どこへ行くんだ?」


「分かりません」


 詩織は微笑んだ。


「でも、自分を探しに行きます」


 母が涙を流した。


「詩織──」


「大丈夫です、お母様」


 詩織は母を抱きしめた。


「いつか、戻ってきます」


 梨花が詩織の手を握った。


「お姉ちゃん、また会えるよね?」


「もちろん」


 詩織は微笑んだ。


「でも、次に会うときは──違う私かもしれない」


 詩織は屋敷の門を出た。


 振り返る。


 美しい屋敷。


 だが、もう私の場所じゃない。


 詩織は前を向いた。


 そして──


 歩き出した。


 どこへ行くのか、分からない。


 何をするのか、分からない。


 ただ──


 新しい私を、探しに行く。


 街を歩く詩織。


 人々が行き交う。


 誰も、詩織のことを知らない。


 詩織も、誰のことも知らない。


 だが──


 それでいい。


 詩織は微笑んだ。


 そのとき──


 ポストに、手紙が入っているのを見つけた。


 詩織宛の手紙。


 差出人は──


「由香里」


 詩織は息を呑んだ。


 由香里──


 ノートに書いてあった名前。


 私の、本当の母親?


 詩織は手紙を開いた。


 そこには、書かれていた。


「詩織へ。あなたが本当に変わりたいなら、この住所へ来なさい。そこで、全てを話します。──由香里」


 詩織は手紙を握りしめた。


 由香里は、生きている?


 いや、違う。


 これは──


 詩織は気づいた。


 これも、物語の一部。


 私を、次の段階へ導くための。


 詩織は微笑んだ。


「分かったわ」


 彼女は呟いた。


「行くわよ、由香里さん」


第10話 終


次回、第11話「新しい詩織」


記憶を失った詩織は、由香里からの手紙に導かれ、知らない町へ向かう。そこで彼女を待っていたのは──過去の真実と、新たな選択。詩織は、本当の自分を見つけられるのか?

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