#9 丹衣奈

 春も終わりかけて、校庭の桜はほとんど散っていた。それでも、花びらの名残が風に舞うたびに、わたしは「かつての記憶」を呼び覚ました。風の中に、かすかな声が混じるように。

新那にいな、外に出よう」

それはあの人、お姉ちゃんの声にも、十年前の自分の声にも似ていた。


 今日は、新しく転校してきた児童の初日だった。

「みんなー、紹介しますね。今日からこのクラスの仲間になる相花あいはな丹衣奈にいなさんです」わたしは一瞬、時間が止まったように感じた。彼女の名は、まったく同じ「にいな」だった。それは偶然にしては、あまりに象徴的すぎた。


 小さな丹衣奈は、おずおずと前に出て、少し俯いた。

「よろしくお願いします」

彼女の声は震えていた。その声の調子は、どこか昔の自分と重なって聞こえた。


 授業が始まり、ホワイトボードに数式を映し出すプロジェクターの光が教室を照らした。新那は児童たちの理解度をリアルタイムで補助しながら、小さな丹衣奈の表情を観察していた。わたしは、時おりペンを止めて窓の外を見つめた。それはあのときの「わたし」が、何かを思い出そうとしているようだった。


 その日の放課後。わたしは職員室の帰りに、中庭でその子がひとり座っているのを見つけた。近づくと、少女は小さな声で言った。

「新那先生って、本当にロボットなの?」

「ええ、そうだよ。でも、人間の『気持ち』を学ぶために作られたの」

「じゃあ『悲しい』って、わかる?」

わたしは少し考えた。

「感じる仕組みはちょっと違うけど、心の中が冷たくなるようなときがあるの。それを『悲しい』って呼ぶのだと思う」


 少女はうつむきながら、小石を靴先で転がした。

「わたしね、去年、ママを亡くしたの」

「そうなの……」

「でも、誰も『かわいそう』って言わないの。なんでだろう」

わたしの中では、古いメモリが軋むように動いていた。

「同じことを、昔のわたしも思った」

誰も「かわいそう」と言えないほど、人は死を恐れているのだと。でも、大人ならまだしも、それを小さな子供である彼女にそのまま伝えるわけにはいかない。

「それはね、みんなが悲しさをうまく言葉にできないからだと思う。でも、言葉にできない気持ちがあるからこそ、人は優しくなれるの」


 少女はしばらく黙っていた。やがて、そっとわたしの手を握った。

「新那先生の手、あったかい」

「放熱温度は三十六度に設定してあるの。人と同じにね」

「じゃあ、ほんとに生きてるみたい」

「ううん、『生きてる』の定義は、きっとひとつじゃないと思うの」


 そしてわたしは理解した。自分の中の「過去」と「経験」は、もう閉じるためではなく、誰かの「未来」を照らすために存在しているのだと。


 夕暮れ、少女は母親の形見だというチェックのスカーフを握りしめていた。

「ママがね、最後に言ったの。『もう一度春を見たい』って」

「それはきっと、今あなたの目で見ているこの春のことだよ」

それを聞いたわたしはそっと空を見上げた。夕陽の中で、桜の花びらが金色に光っていた。そのとき、わたしのスマホに、お姉ちゃんからの短いメッセージが届いていた。

「君が出会う子どもたちは、みんな新しい『記憶の花』だよ。ちゃんと咲かせてあげてね」

それを読んだ新那は微笑んだ。

「ねえ、丹衣奈ちゃん」

「なあに?」

「あなたの見てる春、きっと誰かの願いが咲いてるの」


 少女はその言葉を胸に、うなずいた。風が吹いて、二人の髪、人間の髪と人工繊維の髪が同じ方向に揺れた。


 夕陽は、まるで過去と未来をつなぐように、校舎の窓に長い影を伸ばしていた。

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