スピンオフ1・さよならママ

 それは相花あいはな丹衣奈にいなが通う小学校に岩井いわい新那にいな先生が着任する一年ほど前のことだった。


 丹衣奈の母・由紀江ゆきえは、前年の定期検診で乳がんが見つかった。検査の結果、数カ所への転移が確認され、主治医の声には、もう隠しようのない疲れがにじんでいた。退院の目途はたたず、彼女は会社を休み、緊急入院した。


 そのころ、夫の康雪やすゆきは夜遅くまでパソコンの前に座り、義体化技術の資料を読み漁っていた。ある晩、白いパンフレットを持って病室に入ると、由紀江は点滴の管を見つめたまま、少しだけ微笑んだ。

「ねえ、生き続けられる、っていう意味なの?」

「形は違うけど、そうだ。君の意識を保存して、体を作り直すことができるんだ。」


 彼女は長いまつ毛を伏せ、パンフレットのページを一枚ずつ指先でめくった。その指が震えているのを康雪は見た。しかし、ページを閉じた由紀江の声は静かだった。

「でもね、私は、この体で終わりたいの。あまり心配かけたくないから奈津江なつえには黙っておいて。彼女の人生の邪魔をするのはあまり本意じゃないから」


 一時期、治療の効果が出て、彼女は自宅に戻った。リビングで家族三人、久しぶりに食卓を囲んだ夜、康雪は「春になったら、義妹のところへ旅行しよう」と言った。由紀江は笑って、「あの子の家の前の道、桜並木がきれいなんだよ」と返した。でも、その春は来なかった。再発の報せは、唐突に届いた。


 その日、病室には春の午後の光が静かに差していた人工呼吸器の音がリズムのように響き、由紀江の胸がかすかに上下していた。 病院からは電話で容態急変を家族に一斉に知らされた。モニターの電子音が不規則に揺れ、白いシーツの下で由紀江の呼吸が薄くなっていった。


 康雪はそのベッドのそばで、ただ椅子に腰掛け、妻の手を握っていた。言葉はもう出なかった。医師の説明も、看護師の足音も、耳に入らない。彼の世界は、もう「握る」ことだけになっていた。

「由紀江、帰ろう。あの桜、もう咲いたよ」

彼からはかすかな声が漏れた。けれど返事はなかった。モニターの線が、次第に緩やかになっていくのを見ながら、康雪はただ手を離さなかった。そのまま、音が途切れた。五十九歳だった。彼は立ち上がることも、叫ぶこともできず、ただ肩を震わせながら、「ありがとう」という言葉だけを、胸の中で繰り返した。


 まだ小学生の丹衣奈は、先生からの緊急連絡を聞いて校門前で乗ったタクシーの後部座席で両手をぎゅっと握りしめていた。病室のドアを開けたとき、母はもう、深く静かな眠りの中にいた。


 その夜、由紀江は布に包まれ、ゆっくりと台車に載せられた。廊下に立ち並ぶ看護師たちが一礼をした。ホールに向かう車の中で、康雪と丹衣奈は並んで座り、彼女に話しかけた。

「ママ、覚えてる? 夏の海」

「お弁当、鶏そぼろばっかりだったよ」

もちろん返事はなかった。だけど、沈黙の奥に温かい記憶が確かにあった。父娘はホールに着いた後、冷蔵室に向かう彼女を見送った後一旦帰宅した。

帰り際に康雪は丹衣奈に言った。「ママはこれからエステサロンに行って綺麗になって戻って来るんだよ、病気でげっそりした顔もちゃんと治してね。この後お披露目だからね」と。


 翌日、由紀江は冷蔵室から出され、ホールスタッフによって作業室へと運ばれた。血管にポンプから伸びる透明なチューブが繋がれて丁寧に薬品を注ぎ込まれ、体の中をゆっくりと満たしていった。その作業が終わると、シャワーの水音がやさしく響いた。そして彼女に康雪が用意した青いワンピースを着せ、唇に薄い紅をのせた。顔は、どこか闘病から解放されて心地よく眠っているようだった。その後、スタッフは真新しい「寝室」に由紀江をそっと横たえ、静かに蓋を閉じた。


 その十日後、由紀江は通っていた教会のチャペルに移されて、康雪、丹衣奈そして親戚たちがそこに集まった。部屋には参列者のすすり泣きが混じっていたが、放心状態の康雪の耳には遠い波のようにしか届いていなかった。そこにカナダから帰国した彼女の妹の奈津江がやってきた。チャペルの奥に進むと、彼女は崩れ落ちるように泣き叫ぶように訴えた。

「ちょっとちょっと、姉さんさぁ……」

奈津江は笑いながら近づこうとしたが、その声は途中で震えに変わった。

「何であたしに言ってくれなかったのよ。交通費ならいざという時のために貯めてたのに……」

声は途切れ、肩が震えた。

「もう、こんなひんやりとしたゴム人形みたいな腕になっちゃって……」

その瞬間、奈津江の指が姉の腕を強く握った。その冷たさが伝わってくると、心の奥から反射的に「違う」と思った。

「ねえ、姉さん……。起きてよ。冗談でしょ?」

涙が零れ、次の瞬間、彼女はその身体を思わずグラグラと揺らした。

「やだよ、そんなの……」

揺らしても、眠る顔はそのままだった。それでも奈津江はやめられなかった。姉の髪を撫で、頬を両手で包み、額を押し当てた。

「冷たい……。ねえ、どうして」

声は次第に嗚咽に変わり、言葉は壊れていった。


 扉の隙間越しに義妹が泣き崩れる姿を、康雪は廊下から見ていた。彼は何も言わなかった。ただ目を閉じて、手のひらの中の花の匂いを確かめた。それは、由紀江が好んで生けていた白いガーベラの香りだった。奈津江の泣き声が小さくなったとき、康雪はそっと中に入り、由紀江の足元に膝をついた。

「奈津江さん……、そろそろ、行こう」

彼の声は穏やかだった。けれどその穏やかさは、まるで氷の上に立つように脆かった。奈津江は何も言わず、姉の手を最後に一度だけ握りしめた。


 人々が別れを告げて去ったあと、康雪は一人で「寝室」のそばに立った。由紀江は、花々に囲まれた白い「寝室」の中にいた。淡い青のワンピース、薄く施された化粧。彼女の顔は、まるで「少し眠っているだけ」のように穏やかだった。康雪は、彼女の頬に手を当てた。その冷たさを確かめながらも、指を離せなかった。その間、「行かないでくれ」と、心の中で何度もつぶやいた。でも、その言葉は空気の中でほどけて消えた。


 代わりに、彼は指先で彼女の頬をなぞり、一輪の白いガーベラをそっと握らせた。そしてポケットからコンビニでプリントした結婚式の写真を取り出し、胸元に差し込んだ。それが彼なりの「さよなら」だった。彼は愛する妻が、その寝室の中からどんな思いで自分を見上げているのだろうか。それは全く想像もできなかった。


 やがて「寝室」の天井が閉じられ、中は安らかな眠りを誘うように淡い光が静かに消えていった。搬出のために台車が動くと、車輪が床をきしませた。その音が康雪には、遠い子守唄のように聞こえた。


 その後、由紀江を寝室ごと載せた車に、外で待っていた奈津江と康雪、そし丹衣奈が乗った。その車は山奥の方へと向かった。その車の中で、憔悴しきった奈津江と康雪はほとんど言葉を交わさなかった。窓の外を、風に揺れる桜の花びらが流れていった。それをぼんやりと見ていた奈津江がぽつりとつぶやいた。

「ねえ、あのとき姉さん、笑ってた?」

康雪は少し間をおいてから答えた。

「うん。少しだけ、笑ってたよ」

それが本当かどうかは分からない。けれど、その嘘だけが、彼らをかろうじて繋いでいた。桜の影が車の窓をよぎるたびに、二人の沈黙は、少しずつやわらかくなっていった。それは、言葉を越えたところでようやく訪れる、「別れのあと」の最初の呼吸のようだった。


 車は舗装の途切れた道を上り、林の奥の小さな空き地で停車した。そこには、地下へと続く穴が掘られていた。作業員が「寝室」を吊り上げ、ゆっくりと降ろしていく。

「着いたよ……。ここが、君のための別荘地だよ」

康雪は泣きながらつぶやき、ガーベラを一輪、穴の中に投げ入れた。花びらが光に揺れ、静かに沈んでいった。重機の音が土を戻し、すべてを覆い隠した。


 そして、新那先生と出会った数日後の休日、丹衣奈はバスを降りた後一人で山道を歩き、その場所に立った。芝生の合間に置かれた「表札」が並んでいる地面の上には柔らかな緑の新芽が芽吹いていた。康雪に「ママはね、今、山の別荘の中の寝室で静かに休んでいるんだよ」と言われていたその場所に。丹衣奈は手を合わせ、芝越しにそっとつぶやく。

「ママ、そっちの様子はどう? わたし元気だよ」

その声に答えるように、風が頬を撫でた。丹衣奈は目を閉じ、微笑んだ。もう何も見えなくても、心の中で確かに感じた。ママは、ここにいる。その確信だけが、彼女をまっすぐ立たせていた。




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