#7 懐かしの学校
風の匂いが、懐かしかった。春の午後。街路樹の桜はもう散って、舗道には花びらの代わりに新しい緑が光っていた。わたしはその中を歩いていた。お姉ちゃんが少し後ろから見守るように歩く。
「こっちだよ、
「うん、覚えてる。あの頃、毎朝いっしょに歩いた道だね」
住宅街の中に、小学校の校舎が見えた。新しく建て直されている部分もあるけれど、校庭のフェンスの形も、昇降口のガラス扉の歪みも、昔とほとんど変わっていなかった。わたしは、ふと足を止めた。
胸の奥がざわついた。わたしことNIINA-02の回路内を伝わる信号にわずかにノイズが乗った。だけど、これは機械の誤作動ではなかった。心の中で何かが「覚えている」のだ。
門の横のインターホンを押すと、警備AIによる自動応答システムが応答した。
「ご用件をどうぞ」
「卒業生です。少しだけ、校舎を見学させてもらえますか」
データ照合のあと、許可が下りた。わたしたちは職員室の前の廊下に通された。壁には今も児童たちの絵が並んでいる。その一枚に、わたしは思わず足を止めた。
「彩那お姉ちゃんといっしょに海にいった日」。
幼い筆跡でそう書かれた画用紙のコピーが、記念作品として飾られていた。絵の中では、お姉ちゃんとわたしが並んで笑っている。波の向こうには、きらきら光る太陽。
「残ってたんだ、これ」
わたしは指を伸ばしかけ、途中で止めた。指紋をつけたくない。そんな気持ちが自然に湧いた。よく考えたら今のわたしの指から脂なんて出ないからつくはずもないのに。お姉ちゃんが、静かに言った。
「時間って、思ってたよりも優しいのかもね」
わたしたちは校庭に出た。昼休みの子どもたちが遊んでいる。ドッジボール、縄跳び、笑い声。私の耳はそれらを正確に拾い上げ、AI解析の数値が視界に出た。それは、「平均声量:六八デシベル」「リズム周期:〇・九秒」だった。だが、その数字はどこか遠く、無意味だった。
「わたしも、あんなふうに笑ってたのかな」
お姉ちゃんが答えた。
「うん。いつも誰かの後ろで、でも一番大きな声で」
笑い声が波のように寄せては返していく。そしてわたしの胸の中で、何かが溶けていった。
そのとき、一人の女の子がこちらに気づいた。
「ねえ、お姉さんって、ロボット?」
「ん。たぶん、そうだよ」
「でも、泣いてるみたい」
わたしは手を当てた。頬を伝っていたのは冷却水、いや、今朝補充した涙の模倣液だ。
「そうかもね。わたし、自分でもよくわからないけど……」
女の子は少し考えてから、笑った。
「ロボットでも、泣けるなら人間だよ」
その言葉が、胸の奥の深いところまで届いた。世界が、少し揺れた気がした。
帰り道。夕陽が校舎の窓に反射して、橙色の光がふたりを包んでいた。わたしはぽつりとつぶやいた。
「お姉ちゃん。わたし、あの頃の『わたし』に会えた気がする」
「そうだね。あの子、きっと今も笑ってる」
風が吹いて、彼女の制服の裾が揺れた。遠くでチャイムが鳴る。六時間目の終わり。わたしは目を閉じた。あの頃の記憶の中の自分が、校庭で振り返り、こちらに手を振っていた。
「またね」
その声が聞こえた気がした。わたしはゆっくりと手を上げ、同じように振り返した。
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