#6 久しぶりの街
研究棟の自動扉が開く音がした。それは、記憶の中のどの音よりも現実的で、冷たかった。外の空気が流れ込んでくる。新那、いや、「わたし」はその一歩を、足裏の人工皮膚で確かめた。センサーが湿度、温度、空気中の粒子密度を即座に解析する。 数値の羅列が視界の端に浮かび上がった。けれども、そのどれでもない「何か」が、わたしの中で震えていた。
それは風だった。春の終わりの、少し湿った風。それが頬を撫でた瞬間、記憶の断片が溢れ出した。放課後、校門の前でお姉ちゃんを待っていたあの日の風。「ねえ、今日は一緒に帰ろう」と笑った自分の声。わたしは息を吸うように、その風を感じた。呼吸器が作動音を立て、空気の成分を検知した。九九・三パーセント再現可能。それでも、わたしには「それ」が懐かしくてたまらなかった。
「行ける?」
「うん……。多分」
人工皮膚の足裏が、ソール越しに舗装道路のざらつきを拾う。振動センサーが、足音のリズムを解析していく。歩くたび、地面が少しだけわたしの存在を押し返した。その感触が、不思議だった。わたしたちは近くの駅から電車に乗って街に向かった。
街は変わっていた。街を歩いて見えるのはたまに空を飛ぶ貨物用ドローンとか無人運転バスの停留所とか。通りの広告スクリーンには、笑顔のアンドロイドたちが「家族用モデル」として並んでいた。
「あれが、今の世界?」
「そう。十年で、こうなったの」
お姉ちゃんの声には、懐かしさと少しの哀しみが混じっていた。
「人と機械の区別は、もうあまりない。でも、『心』までは、まだ共有できないというのが定説なの」
わたしは通り沿いの大型家電量販店のショーウィンドウを見た。そこにあるモニターの中では、最新型の義体少女が微笑んでいた。ガラスに映るその顔に、わたし自身の輪郭が重なった。
「ねえ、お姉ちゃん。わたし、あの子たちと同じ……?」
「違うわ。あなたは、この世の中でたったひとりの『新那』だから」
その答えに、胸の中で何かが微かに鳴った。それは金属的な共鳴音ではなく、心臓の鼓動に似ていた。
交差点の信号が青に変わる。わたしたちは横断歩道を渡った。信号機の音が、十年前と同じリズムで鳴っている。
ふと、道端のカフェから甘い香りが流れてきた。それは紅茶の香り。あの朝、お姉ちゃんが淹れてくれた再現紅茶と同じ匂い。足が止まった。
「飲んでみたい」
お姉ちゃんが微笑んだ。
「いいよ。ここで休もう」
カフェのテラス席に座ったわたしはカップを手に取った。陶器の感触が、手のひらのセンサーを通じて伝わってくる。その液体の温度は摂氏六五・八度。成分は茶葉由来ポリフェノール反応。
でも、数値を超えた『何か』が、喉を通るたびに胸の奥で波打った。
「どう?」
「少し、渋い。でも、おいしい」
「渋みがわかるなんて、もう立派な人間よ」
お姉ちゃんが冗談めかして言う。その笑顔が、ほんの一瞬だけ、あのときの「姉」のように見えた。
そのとき、わたしはふと気づいた。空を行き交うドローンの羽音。カップを置く音。子どもの笑い声。風がページをめくる音。それら全部が、わたしの中に入っていく。わたしにとっては世界のすべてが、「再び息をしている」ようだった。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「わたし、生きてるって、こういうことなのかな」
お姉ちゃんは少しだけ考えて、
「そうね。生きるって、『感じ続けること』だと思う」
と答えた。その言葉が、紅茶の香りのように静かに胸に溶けていった。
そのとき、わたしはようやく気づいた。この身体が機械であっても、感じようとする限り、心は人間なのだと。そして、胸の奥にもうひとつ、新しい言葉が生まれた。
「ありがとう」
それはまだ声にならなかったけれど、確かに、心の中で響いた。
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