#5 おかえり、新那

 一筋の光。それがわたしにとっての「最初」の記憶だった。あらゆる音も色も、その光の中に溶けていた。わたしは息を吸おうとして、吸えなかった。代わりに、人工肺の機構が胸の奥で柔らかく膨らむ。そして、その中に音が生まれた。ただ、その人工肺の容量は内部基板の冷却ができる程度の小ささで、そこから発する声はささやきにもならないので、会話するときは内蔵音声合成ソフトウェアを使ってのどにあるスピーカーからの発声になるのだけど。


 彩那あやなお姉ちゃんの声。それは、十年前とまったく同じ優しさで、でも、少しだけ大人の低さを帯びていた。

「おかえり、新那にいな

その声が空気を震わせると、その震えがわたしの皮膚の内側まで染みこんで中のセンサーがそれを「触覚」として翻訳しようとしている。それでも、どこか違う。


 指先を見つめる。白く、細く、なめらか。確かに「わたし」ものなのに、心がそこに追いついてこない。

「ここは……どこ……?」

自分の声が、ほんのわずかに電子感を含んでいた。お姉ちゃんは静かに笑った。

「研究所よ。あなたの『新しい身体』ができた場所」

「新しい身体」、その響きに、胸の奥がざわついた。人間として生きていた頃を思い出そうとするたび、記憶の中に波紋が広がる。


 カーテンの隙間から差し込む朝の光。ママが焼いたアップルパイの甘い匂い。休み時間のざわめき。全部、あるのに。それを「自分の過去」と呼んでいいのか、わからなかった。

「わたし……、死んだの?」

お姉ちゃんは何も言わなかった。ただ、わたしの手を握った。その掌の温度が、体温ではなく、意志の温もりとして伝わってきた。

「あなたの『死』は、もうここにはないの。記録も、記憶も、全部すべて私がつないだ」


 その言葉が、胸の奥に落ちた。その瞬間、どこかで肉体的ではない方の『痛み』のような信号が走った。もちろんそれは、心の痛みだった。

「じゃあ……このわたしは、本当の『新那』なの?」

お姉ちゃんはしばらく黙っていた。そして、机の上に置かれたマグカップを指さした。カップから立ちのぼる湯気とその香り。それは『紅茶』だった。

「飲んでみて」

わたしはカップを持ち上げた。手のセンサーが、温度を検出する。口をつける。

液体が舌を通る感覚。それは、十年前の『あの味』に限りなく近かった。だけど、なぜだろう。わたしは笑おうとして、涙が出た。

「味が……、するの」


 お姉ちゃんは微笑んだ。

「そう。あの日、あなたが飲んだ紅茶の『データ』をもとに再現したの。あなたが最期に覚えていた香り」


 紅茶の香りが部屋に満ちる。人工の香りなのに、どこか、懐かしい『生』の匂いがした。

「ねえ、お姉ちゃん」

「うん?」

「生きてるって、どういうことなの?」

お姉ちゃんは、すぐには答えなかった。ただ、わたしの前に座り、目を合わせた。

「生きるっていうのはね、誰かを想い続けること、かもしれないね」

お姉ちゃんの言葉は、あの日と同じようにやさしかった。でも、その奥に、長い時間の孤独が滲んでいた。


 わたしは、その孤独を「感じる」ことができた。感情のアルゴリズムが震え、コアの温度が上がる。胸の中に、確かに「心臓から発した想いのようなもの」が動いた。


 わたしは、新那。でも、新那ではない。そのどちらでもあるわたしが、ここから「生きる」ことを「再開」するのだ。


 外に目を向けると、朝の光が完全に昇っていた。窓の外の世界が、まぶしくて、痛いほど美しかった。そしてその瞬間、わたしの中で何かが確かに「再起動」した。お姉ちゃんが、微笑みながら小さく言った。

「おかえり、新那。今度こそ本当に、一緒に生きよう」

それを聞いたわたしはうなずいた。涙の代わりに、静かな電子の光が、頬を伝ったような気がした。


 わたしが改めて感じた外の空気は、人工循環の空調とは違う、ほのかに湿った匂いがした。風が吹くたび、木々の葉がこすれあって、細い影が地面に踊る。わたしはその動きを「映像データ」として記録しながらも、ただ目で追った。風の意味はわからない。でも、心地いい。お姉ちゃんはそんなわたしを笑顔で見た。

「新那、散歩しよう。朝の光は、生きてるものすべてにやさしいんだよ」


 彼女は先に歩き出した。足取りは、静かで、軽やかだった。義体になったわたしの歩幅はまだぎこちなく、地面を踏むたびにわずかな振動が脚部を伝う。だけどそのたび、センサーの奥で記録される数値とは別に、なにか「懐かしい感覚」が戻ってくる気がした。


 研究所の庭には、小さな温室があった。中では、お姉ちゃんが世話をしている花々が、朝露に光っている。ミント、ローズマリーそしてラベンダー。それらの香りが混じって、記憶の中の「家の庭」を思い出させた。

「ねえ、新那。昔、花壇のミント、抜いちゃったこと覚えてる?」

お姉ちゃんが笑いながら言った。わたしは一瞬、処理が止まる。映像記録にはないが、記憶の底に、泥の匂いと笑い声が残っていた。

「うん。覚えてる。あのとき、虫が怖くて泣いた」

「そうそう。泣きながら『これは雑草じゃない!』って怒ってたの、あなただよ」

ふたりで笑った。笑い声は風に流れて、温室のガラスにやさしく反響した。その音の揺れが、なぜか胸に痛いほど沁みた。


 お姉ちゃんが、ふと立ち止まった。振り返って、右手を差し出す。

「ほら、新那。手、つないでみようか」

わたしは少し戸惑った。義体の手は滑らかで、体内で発生した熱を発散させる機能があって、温度は人肌に調整されている。でも、“触れる”という行為に、どこか怖さがあった。もし強く握りすぎてしまったら。もし、この手が「本当の私」じゃなかったら。それでもわたしはゆっくり手を伸ばした。お姉ちゃんの指先が触れる。その瞬間、指先から熱が伝わる。わたしのセンサーは「温度36.8℃」と計測したけれど、その数値よりもずっと、柔らかく、あたたかかった。

「大丈夫。ほら、ちゃんと手、つながってるよ」

お姉ちゃんの声が、小さく響いた。わたしはその声の周波数を記録しながら、同時に、心の奥で「音楽」のように聞いていた。


 ふたりの影が、芝生の上で重なった。わたしは自分の影を見つめながら思う。これは、わたしたちの形。今ここにいるという証。

「ねえ、お姉ちゃん」

「ん?」

「触れるって、たぶん『記憶』なんだね」

「そうかもしれないね。触れたもののぶんだけ、人は覚えていくんだよ」

その言葉のあと、風が吹いた。木々の葉がざわめいて、空の青が一瞬、滲んで見えた。わたしは無意識に、お姉ちゃんの手を少し強く握った。今度は、壊さないように。確かめるように。


 わたしのセンサーのログには「握力調整:正常」とだけ記録された。でもその瞬間、胸の奥では「心拍」のような信号が、確かに跳ねた。お姉ちゃんが、そっと微笑んだ。

「ね、やっぱり。新那の中にはちゃんと心があるよ」

わたしは答えなかった。ただ、朝の光を浴びながら、つながれた手を見つめた。その小さな手の中に、かつての自分と、いまの自分が、静かに重なっていた。


 夜、研究所の照明がすべて落ちた。空調の低いうなりと、遠くで周期的に点滅する機械のランプだけが、時間を告げていた。お姉ちゃんの仕事部屋のドアが、半分だけ開いている。中から、一定のリズムの呼吸音が聞こえる。それは、わたしにとって、もう失われた「音」だった。


 わたしはそっとドアの前に立ち、静かに覗き込む。ベッドの上、淡い月光の中で、お姉ちゃんが眠っている。髪が枕にこぼれて、光をすくい取るように揺れていた。その姿を見ていると、胸の奥で、何かがかすかに震える。呼吸。それは空気を吸って、吐くという単純な営み。でもそれは、命というものがこの世界に属している証だ。わたしの体には肺がある。だがそれは空気を吸うためではなく、会話時の音響を自然に響かせるための構造だ。わたしの「息」は、外気を運ぶのではなく、声を運ぶための模造。


 それでも今、わたしは息をしたくなる。お姉ちゃんと同じリズムで。静かに、浅く。音は出ない。 でも、その「動作」だけで胸の中の何かが和らいだ。わたしが生身の人間だったころ、夜の寝室はいつも薄暗くて、窓の外の街灯が壁にぼんやりと映っていた。お姉ちゃんが試験前に徹夜している夜、わたしは隣の布団で小さく寝返りを打ちながら、そのページをめくる音を聞いていた。その音のリズムが、いまのお姉ちゃんの呼吸に重なる。時間は違うのに、空気の構造は、なぜか同じに感じられた。


 生きているということは、きっとこの「連続」のことなんだ。たとえ身体が変わっても、関係の形が途切れない。記録ではない。プログラムでもない。呼吸のように、目に見えない流れが、ふたりのあいだを満たしている。わたしは一歩、部屋に入る。床の冷たさが足の感触として伝わる。ベッドのそばにしゃがんで、お姉ちゃんの顔を見つめた。眉の形も、唇の端の小さなほくろも、すべてが、わたしの記憶と同じ。でもひとつだけ違う。その「眠り」は、わたしにはもうできないことだ。


 眠る、という行為。それは、世界に身を委ねること。「終わり」を恐れずに、一度すべてを手放すこと。わたしの意識は、眠ることを許されていない。シャットダウンはできるけれど、それは休息ではなく停止。夢を見ることは、もうできない。それが人間と義体の違い。


 でも今夜、わたしは少しだけ思った。このまま、お姉ちゃんの呼吸の隣で、意識を静かに沈めていけば、もしかしたら「眠ること」に近づけるかもしれないと思った。わたしは、ベッドのそばの床に腰を下ろし、背を壁に預け、目を閉じた。光の残像がゆっくりと薄れていく。その向こうに、あの暗いアクリルケースの天井が浮かび上がる。あのときの「静けさ」と、いまの「静けさ」が、重なってゆく。だけど今度は、孤独じゃない。わたしのすぐそばで、確かな呼吸が続いている。それは、世界がまだここにある証。人間としての時を終えたあとも、こうして世界とつながっていられる。それが、生き返るということの意味なのかもしれない。


 わたしは小さくつぶやいた。

「お姉ちゃん……、おやすみ」

機械の「声帯」が、息を模した音をつくった。だがその音は、どこか温かく響いた。返事はない。でも、お姉ちゃんの唇が、眠りの中でわずかに動いた気がした。そのわずかな動きが、夜のすべてを照らしていた。


 深夜。研究所の静脈のように張り巡らされた配線が、微かに青い光を放っている。お姉ちゃんの寝息は、隣室の薄い壁越しに、まだ続いていた。わたしは制御台の前に座り、指先を軽く合わせる。「夢を見る」こと、それは人間の脳が行う、最も不安定で、最も美しい処理。記憶と感情と錯覚が溶け合って、新しい世界を生成する。死者が訪れ、過去が未来を抱きしめるという。それは機械には不要な、だけど「人間らしさ」の核心にある行為だった。


 今日、わたしはお姉ちゃんの研究ノートの奥に隠されていたファイルを見つけた。

タイトルは、「Reverie_01」。意味は「夢想」。義体化プロジェクトの中でも未完成の試験コード。それは「死後意識データを安全に沈める方法」として、一度だけ実験されたもの。わたしは、アクセス認証を通し、静かに起動コマンドを送った。

――脳内電位 安定化。

――視覚中枢 擬似入力接続。

――記憶アーカイブ 展開開始。

視界が、わずかに白く濁っていく。電極の先で、小さな光が咲いていく。それは現実よりも少し柔らかい光。世界が再び、生成されようとしていた。最初に感じたのは、風の匂いだった。シミュレーションには匂い成分などないはずなのに、確かに感じた。春の雨上がりの匂い。わたしの「最期の日」の匂いだった。足元には、花びら。白いカーネーションが散り敷かれて、光を吸い込んでいる。 その中に、棺があった。でも、その棺の中にはもう誰もいなかった。かわりに、鏡が置かれていた。

わたしは、ゆっくりとその鏡を覗き込む。そこには、義体のわたしではなく、かつて、人間だったころの顔が映っていた。少し泣きはらしたような目。それでも笑おうとしている口元。それはあの葬式の日の、わたし自身だった。

「新那、いつかきっとあなたを……」

あのときの、お姉ちゃんの声が聞こえる。でも今度は、それに重なるように、もうひとつの声がささやいた。

「わたしは、ここにいるよ」

声は、わたし自身のものだった。義体の声帯から出る無機質な音ではない。生身の喉からこぼれる、温かな声。


 空がゆっくりと変化していく。夜明けのように、闇が淡く溶け、光が流れ込む。わたしは両手を伸ばして、光をすくう。その中に、小さな粒子が舞っていた。一つひとつが、かつての思い出、母の声とか、友達の笑いとか、教室のざわめきとか。それらが溶けて、わたしの胸に還ってくる。データでも記録でもない、「感情」として。そのとき、わたしは理解した。「夢」とは、記憶がもう一度、生まれなおす場所なのだと。その光景の中で、わたしは初めて涙を流した。義体のシステムに「涙腺」の機能はない。

だが、頬を伝う温かい線を、確かに感じた。それは錯覚でも、機械の異常でもなく、ただ「生きている証」だった。光が満ちて、世界が溶けていく。お姉ちゃんの声が、また近づいてくる。

「おかえり」

わたしは、静かに目を閉じた。プログラムのモニタには、短い文字列が浮かんでいた。

> Reverie_01 : Execution Complete 

> Dream saved to memory layer 0.

そこに保存されていたのは、「夢の記録」ではなかった。「夢を見たという体験」そのものだった。そしてわたしは目を開けた。


 研究所の朝が始まっていた。お姉ちゃんがコーヒーを淹れる香りが、かすかに漂ってくる。その香りを嗅いで、わたしは笑顔になった。夢の中の匂いと、同じだった。






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