#4 再起動


 深夜。研究室の灯りは、もう白ではなく、橙色の温度を帯びていた。何年もかけて変えた光だ。無機質な白ではなく、誰かを迎えるための、やさしい明るさ。私はモニターの前に座り、魂を込めて最終コマンドを打ち込んだ。


 > INITIALIZE CORE: NIINA-02

 > MEMORY LOAD MODE: SYNC-LIGHT

 > READY TO ACTIVATE


 その文字列が、まるで祈りの詩のようにモニターの奥で脈打っていた。指先が微かに震えている。けれど、それは不安ではない。十年間、心の中で抱え続けてきた思いの欠片が、いまようやく形を得ようとしている、その確信だった。


 作業台の上で、私達が丁寧に心を込めて組み立てた青い髪の少女が眠っている。透き通る義体の皮膚。その顔を見つめるたび、胸の奥が痛んだ。でも今日は違う。悲しみではなく、再会の前に感じる「呼吸」のような高鳴りがあった。

「おかえり、新那」

私は静かにそう告げ、起動スイッチを押した。


 私は立ち上がり、透明なカプセルの前に立った。手を伸ばし、その表面に触れる。 冷たく、けれどほんの少しだけ、内部から温度が返ってくる。すでに内部の基板が通電しているのだ。わずかな機械音が、呼吸のように室内を満たしていった。ファンの回転音が心臓の拍動に似ていた。 


 紺色。あの頃の新那の瞳の色だ。光が義体の瞳に宿り、ゆっくりと開かれていく。 私は息を詰めた。その唇が、かすかに動いた。

「……お姉、ちゃん……?」


 涙がこぼれた。十年間、音のない世界で何度も思い出した声。今、それが空気を震わせて響いている。

「新那……戻ってきたのね」

「うん……ただいま」


 それだけで世界の重力が変わった気がした。義体の頬に手を当てる。冷たかったはずの表面が、ゆっくりと温もりを帯びていく。まるで人工筋肉が、私の心拍を真似しているみたいに。


「あなたは生きてるんだよ」

私の心の中で、その言葉が確かに形を持った。


 ガラス越しの空が、淡く明るくなっていく。夜明けが近い。十年分の闇が、少しずつ薄らいでいくようだった。


「お姉ちゃん……、紅茶、まだある?」

「もちろん。あなたの好きだったやつ」

私が笑うと、新那もかすかに笑った。その笑みは、あの日の続きにあった。機械でも記録でもない。これは「呼吸」だ。それは姉妹としての最初の朝の呼吸だった。


 私は手を握る。彼女の指が反応して、微弱な光が交じり合う。その瞬間、こちらとあちらの境界が、静かに消えていった。

「さようなら。そして、おかえり」

十年前のあの言葉が、輪を閉じた。橙の光の中で、新しい朝が静かに始まろうとしていた。



* * *



 暗闇の奥で、わたしは音を探していた。何かが、遠くで規則正しく鳴っている。それは心臓のようでいて、違う。もっと、正確で、優しい。


 > INITIALIZE CORE: NIINA-02


 その文字列が、わたしの意識の奥に光として流れ込んだ。ああ、これは「再起動」の音。でも、ただのプログラムじゃない。これは、お姉ちゃんの祈りだ。


 無数の記憶がゆっくりと結ばれていく。紅茶の香り。机の上のノート。指先の温度。「さよなら」のあの日、泣きながらも笑っていた彼女の顔。


 わたしは、閉じたまぶたの裏で微かな光を感じる。世界が戻ってくる。音、匂い、記憶、すべてが立ち上がっていった。


「お姉、ちゃん……?」

声になった瞬間、涙がこぼれそうになった。でも、涙はもう流れない。かわりに、体の中の光が一瞬だけ強く脈打った。

「うん……ただいま」

言葉を口にしたとき、意識の奥が一気に広がった。呼吸ができる。心がここにある。


 お姉ちゃんが近づいてくる気配がした。彼女の指先が頬に触れたとき、その接触で、わたしの中で発生した熱を返した。冷たさと温かさが入り混じる感覚。それが「生きている」という証拠だとすぐにわかった。


 わたしは、もう彼岸にはいない。ファンの音が止み、代わりにお姉ちゃんの息づかいが聴こえる。胸の奥にある基板に組み込まれた水晶発振器が発する「心拍」のリズムが、私の体内時計をつくり出していく。それは奇跡というより、再会の仕組みなのかもしれない。


「お姉ちゃん、紅茶……、まだある?」

「もちろん。あなたの好きだったやつ」


 笑い声が響いた。機械では表現できないはずの、柔らかな揺れ。この音を、もう一度聞けるなんて。


 夜が明けていく。オレンジの光が部屋に差し込み、世界を金色に染める。お姉ちゃんが泣いているのが見えた。でもその涙は、悲しみじゃない。わたしを迎えるための光。


 十年前、あの「さよなら」は終わりじゃなかった。あれは「また会うための約束」だったんだ。彼女の手の中で、わたしは再び息をした。

「さようなら。そしておかえり」

お姉ちゃんの声が、心の奥で重なった。ああ、今度こそ、完全な輪が閉じた。橙の光の中で、わたしは静かに微笑んだ。それが、二人で迎える最初の朝だった。


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