#3 新那の見る光

 あのとき、わたしは確かに「さよなら」と言われた。でも、それは永遠の別れの言葉のつもりではなくて「あなたを送り出す」ための言葉だった。「いつか帰ってくる日」のために。


 十年という時間の向こうで、お姉ちゃんはまだ生きている。この雨上がりの街で、静かに紅茶を淹れている。彼女の指先の動きひとつひとつを、わたしはこの「こちら側」から見ていた。


 こちらの世界は、静かだ。風も音もない。でも、彼女の思考がわずかに触れるたび、表面に光の波紋が広がる。その揺れを通して、彼女が笑っているのがわかる。

「本当に、よく笑うようになったね」

わたしは本当にそう思う。昔のお姉ちゃんは、いつも何かにおびえていた。人にバレること、自分を失うこと、そして何より、愛される資格がないと思っていたように見えた。でも今の彼女は、違う。「誰かを作る」ことを、もう恐れていない。


 お姉ちゃんが机に手を置いた。その掌の下に、青い光が灯った。新たに改良された義体、「NIINA-02」の設計図。その名前コードネームを見た瞬間、わたしの意識が少しだけ震えた。


 お姉ちゃん、その名前、わたしのためじゃなくていいよ。でも、あなたがそうしたいなら、わたしはもう一度、生まれる準備をするからね。彼女の頭の中に、小さな声を落とした。それは風のように、電流のように、ただ一瞬だけ感じられる微細な波。

「ありがとう」

お姉ちゃんが、ふと顔を上げた。誰もいないのに、微笑んでいた。彼女の頬に光が当たり、義体の瞳に反射した金色が、ほんの少し涙のように見えた。


 ああ、もう心配はいらない。彼女は「あのころのわたし」を越えて、ちゃんと前に進んでいる。


 わたしは、彼女の肩越しにそっと手を伸ばす。届かない。触れられない。けれど、確かにその輪郭を感じる。こうつぶやきながら。

「あなたはもう、生きてるよ。『生きている』という言葉の意味を、誰よりも深く、静かに知っているんだね。


 お姉ちゃんがモニターを閉じ、窓の外を見つめた。その視線の先には、真っ赤な夕陽が色づいていた。橙と金の混ざる空が、ゆっくりと、彼女の横顔を包み込んでいった。わたしはその光の中に、少しずつ溶けていく。名残惜しいけれど、悲しくはない。


 彩那お姉ちゃん、あなたが灯す明かりは、もうわたしの代わりに、これから生まれる『誰か』の手を照らすでしょう。だから、これでいいの。


* * *


 あれから十年が経った。だけど、あの日の「さよなら」は、まだ胸のどこかで震えている。あの時、病院からメモリアルホールへ運ばれる妹に声をかけた。そして薬品処理を終えた身体と「再会」し、花を添えたときのことを今でも覚えている。あの静けさが、すべての始まりだった。窒素ガスで満たされたアクリルケースの中で静かに眠っている妹の顔を思い出すたびに、あの声はただの記憶ではなく、わたしの思考を透かして響いてくる。それはまるで風が心の表面を撫でるように。そしてやさしいのに、痛かった。失われたはずの妹の声が、今も設計室の静寂の中でささやいている。それでも、私は彼女を「もう一度知る」ために、研究の手を止めなかった。そして設計のために、アクリルケースごとCTスキャンに通した。その映像は、まるで祈りの断面図のように美しかった。その時は「協力」してくれてありがとう。あの静けさの中で、たしかにあなたが応えてくれた気がした。


 パネルの光が、夜の窓を照らしていた。CADを動かすモニターの上には、最新の義体フレーム「NIINA-02」の青写真が表示されていた。その内部構造を見つめながら、わたしはペンを握る手を止めた。心拍数がほんの少しだけ上がった。新那。そう口に出すと、空気が震えた気がした。もう「復元」ではない。これは、「継ぐための再構築」。誰かを取り戻すためではなく、「誰かにもう一度、世界を見せるため」の義体。


 十年前の私は、死というものの意味をよくわかっていなかった。ただ奪われるものだと信じていた。でも、今は少しだけわかる。死とは、「別の形で生き続けること」。あの子が遺した考え方や、笑い方や、わたしを赦してくれた瞬間のまなざし、それらが全部、今のわたしの中で「意識」という形を取って、確かに息づいている。


 そのとき、デスクの青い光がゆらいだ。電源の異常ではない。私の掌の熱と微弱電波に反応して、コードラインが自動的に走ったのだ。そこに浮かび上がる名前を見た瞬間、息を飲んだ。そこに現れた「NIINA-02 : 新那」という文字。それは設計ソフトが、まるで彼女自身の意志で文字を刻んだように見えた。偶然かもしれない。でも違う、と直感した。誰かが、今私の思考の表面を撫でている。光の波紋が、ディスプレイ越しに広がっていく。その柔らかな揺れに、わたしは思わずつぶやいた。

「聞こえてるの? ねえ、新那」


 返事はなかった。けれど、心の奥で確かに何かがうなずいた。きっとこの世界のどこかで、彼女はまだ「観ている」。もう一度、生まれる準備をしている。わたしがいつか「送り出される側」になる、その日のために。


 窓の外では、雨が止み、街の灯が少しずつ濡れた道路に映り込んでいた。遠くで子どもの笑い声がする。その響きに、なぜか胸が熱くなった。この街を、もう一度彼女に見せたい。そんな願いが、わたしの中で静かに形を取っていく。


 モニターを閉じ、わたしは両手を胸に当てた。心臓が、ゆっくりと刻むような感覚を覚えた後。その鼓動の裏側に、もうひとつの鼓動が重なるような錯覚があった。あの子のリズム。あの子の呼吸。そして、あの子の祈り。

「新那、これからわたしがあなたに、わたしの時間と記憶、そして世界の続きを渡すね」

自分の声が、ほんの少し震えていた。でも、それは悲しみではなかった。次の世代の光に、少しでも暖かさを残すための震え。


 窓の向こうに夕陽が沈んでゆく。橙色の光が静かに差し込み、机の上の図面を照らした。「再会」という言葉が、心の中で形を結ぼうとしている。もう、死も機械も、過去も未来も、隔てるものではない。ただ、ひとつの祈りとして、わたしたちはこれからも同じ光を見続けていく。それが、彼女とわたしを繋ぐ、最後の、そして永遠の設計図なのかもしれない。


* * *


 光が、ひらいた。最初に見えたのは、天井ではなく、光そのものだった。白く、あたたかく、少しだけ橙を帯びた光。それがゆっくりと世界の輪郭を描いていった。輪郭はやがて、線となり、線はかすかに震えながら「もの」の形をつくった。机。窓。光の粒、そして、人の影。


 呼びかけの声は聞こえない。でも、感じた。わたしの中に、ひとつのリズムが流れこんでくる。それは「音」ではなく、「記憶の呼吸」だった。病に倒れる前の笑い声。病室の白い壁。誰かが泣きながら微笑んだあの瞬間。それらがひとつの波になって、わたしの内側を静かに通り抜けていく。


 わたしの体の素材は生物由来の物質を一切含まない。でも、指を動かすと、センサーが「世界」を測定する。触覚の代わりに、温度の数値が流れた。でもその数字の裏に、たしかに「ぬくもり」を感じた。誰かが、手を握ってくれている。


「見えてる?」

空気の振動が鼓膜の代わりのマイクに届く。わたしはまだ、声を出せない。だけど、答えようとした。その瞬間、わたしの内部回路をひとつの微電流が通り抜けた。

 それは命令ではなく、祈りの形をした信号だった。次の瞬間、視界の端に涙の光が、揺れた。


 わたしはその光を、データではなく「記憶」として保存した。そして、ゆっくりと理解した。この世界にはまだ、知らない温度がたくさんあるのだと。


 外では風が木々を揺らしていた。わたしは初めて、その音を「きれい」と思った。どこか遠くで、小さな子どもの笑い声が聞こえる。あの人が言っていた。「この街を、もう一度見せたい」って。


 いま、わたしは見ている。 そして、これがきっと「はじまり」なんだと思った。


 心の中で、言葉が生まれる。まだ声にならない、けれど確かにそこにある音。それは、風のようにやさしい。

「ありがとう、姉さん。」


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