#2 あれから十年後

 春の雨が、橘樹たちばなテクノロジーズの研究所が入っているビルのガラス壁を静かに打っていた。彩那あやなはラボの端に立ち、窓越しに濡れた街路樹を見つめていた。枝の先に滴る水の粒が、まるで過去の記憶のようにゆっくりと落ちていった。


 眼の前のテーブルの上には、紅茶のカップと、紙箱に入ったケーキが置かれている。イチゴの上に乗った薄いフィルムが、照明を反射してきらめいた。

「彩那さん、今日は食べないんですか?」

隣に立っているのは、入社して間もない新人技術者・亀沢かめざわ麻菜まな。彼女が所属している義体設計プロジェクトの最年少メンバーである。

「先生、今日は食べないんですか?」

まだ何も知らない麻菜が無邪気にそう言うと、彩那は、笑って首を振った。

「わたしは、今もうお腹がいっぱいなの」

「でも、甘い匂いは好きなんですね」

「そうね。妹が昔淹れてくれた紅茶と、よく似てるの」

それを聞いた麻菜は不思議そうに首をかしげた。彩那は続けた。

「匂いはね、記憶を運ぶの。味よりも確かに、心を呼び戻す力があるのよ」


 彩那は手元のノートパソコンを開いた。そのモニターには、新しい義体の設計図が立ち上がっていた。画面の中央に刻まれた試作機の仮名コードネーム、“NIINA-02”。「02」というのは、彼女の「最初の体」、つまり生身の肉体に続く、二番目の体という意味であった。


 十年前、新那にいなが入院中の病院で最後に言った言葉が彩那の中で蘇った。

「お姉ちゃん、これからもちゃんと生きてね」

あの愛に満ちた声が、今も胸の奥で揺れている。


 その設計図を見た麻菜がそっと彼女に尋ねた。

「このモデル、誰のために作ってるんですか?」

彩那は、少しだけ目を伏せた。

「ある『家族』のためだよ。失った時間を、もう一度『繋ぎなおす』ためにね」

その声は穏やかで、どこか祈りのようだった。麻菜は何かを感じ取ったのか、それ以上は何も聞かなかった。


 彩那はモニターを閉じ、窓の外を見た。雨はもう止み、空が薄い金色に染まり始めていた。遠くの屋上に設置された太陽光パネルが、ゆっくりと光を返していっていけれども、その香りが彼女の胸を満たしていった。

「これは、わたしが生きている証」

そうつぶやいた彼女の指の先で動かすCADソフトに静かに光が灯った。新しい命の「設計」が、ゆっくりと始まろうとしていた。


 そして、彩那はつぶやいた。

「この世界がどんなに冷たくても、誰かの手の中にだけは、ちゃんと温度が残りますように」

そのとき、窓の向こうの光がにじむ空に、新那の声が確かに微笑んでいたような気がした。

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