第10話 リイナの夜
夜の研究室には、紙の匂いが満ちていた。
リイナは机に伏せたまま、止まった時計の針を眺めていた。
壁に掛けられた設計図の端が、風にかすかに揺れている。
その中央には、マコトが書き残した言葉があった。
《人間の温度は、誤差の中に宿る》
——誤差。
その言葉が、今の彼女には小さな傷のように響いていた。
ルゼ派が村の南を掌握してから数週間。
研究室には訪れる者もなく、広場では“旧制度”を信奉する者たちが肩を寄せ合っている。
街灯が落ちるたび、誰かが去り、誰かが沈黙を選ぶ。
そしてその静けさの中に、リイナは取り残されていた。
——私は、何を信じたかったのだろう。
マコトの理想も、ルゼの秩序も、どちらも間違ってはいない。
だが、どちらも「人の心の揺れ」を抱えきれていない気がした。
数字にできない不安、言葉にできない寂しさ。
そのすべてが、制度の外に零れ落ちていた。
彼女は棚の奥から一冊のノートを取り出した。
それは、マコトの設計を手伝い始めた頃の記録帳だった。
そこには、二人で考えた数式と、何気ない会話の断片が並んでいた。
「リイナ、制度は器じゃない。呼吸する生き物なんだ。」
「でも先生、人は時々、息を止めてしまうんですよ。」
「だからこそ、誰かがそっと背中を叩くんだ。」
——彼がそう言って笑った夜のことを、彼女は今でも覚えていた。
外では風が吹いていた。
屋根の瓦が鳴り、遠くで鐘の音がする。
リイナは立ち上がり、窓を開けた。
分裂した村の灯が、点と点のように遠くに瞬いている。
その明かりが、まるで互いに届かない星のように見えた。
机の上には、マコトの新しい設計図の断片が残っている。
その一角に、見慣れない文字があった。
《共感網 第2形態案:境界透過モデル》
ページの余白には、走り書きのメモが添えられている。
〈制度が割れるなら、境界を“結ぶ”制度を作る〉
リイナの胸に、かすかな熱が戻ってきた。
もしかしたら、マコトは最初からこの分裂を予期していたのかもしれない。
彼にとって制度とは、完成を目指すものではなく、壊れながら形を変える“呼吸”そのものだった。
その夜、彼女は灯りを消さずに、設計図の上に自分の文字を重ねた。
——“ゆらぎ”を測るのではなく、“ゆらぎ”を共有する装置。
数値でも命令でもない、ただの記録。
人が誰かのために立ち止まった瞬間、誰かの言葉に頷いた時間、
それを拾い上げるだけの、静かな制度。
筆を止め、リイナは小さく呟いた。
「先生……私も、背中を叩ける人になれますか。」
その時、扉の外で小さな足音がした。
ルゼ派の巡回かと思い、身を固くしたが、影はすぐに去っていった。
風だけが残り、紙の端を揺らす。
彼女はノートを閉じ、胸に抱えた。
マコトの理想は遠くにある。けれど、その呼吸はまだ微かに残っている。
そしてそれは、誰かが拾えば、また息を吹き返すのだと信じた。
夜が深まる。
灯のない村の通りに、かすかな風が吹き抜けていく。
リイナはその音を聴きながら、瞼を閉じた。
——ゆらぎの季節は、まだ終わっていない。
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