第8話 正気と狂気


 亜人は汚染地帯にいても問題ない。ただそれは肉体的な話で精神的な事は無視していると思う。この灰色の世界は人の気持ちを少しずつ削ってくる。精神的疲労も馬鹿にならないので、もう一箇所調べてから、一度帰還することにした。


 しかしゾンビの大量発生は何が原因なのか。限界汚染圏灰野の奥にある汚染地帯朽原に答えがあると思ったんだが……

 ……今のところ、そこで大量発生は起きていない。そうすると“何かにゾンビが押し出されている”のか。やはり朽原を調べるしかないだろう。

 今日最後の偵察地点は古い病院跡にした。崩れかけた看板からは、かろうじて「小児科」とだけ読めた。

「仁くん……人の気配がする」

 光がそう言った時、俺の足元の灰がふわっと舞い上がった。確かに空気の動きを感じる。風とは違う微かな気配がある。

「……おかしいな。ゾンビならもっと雑に動くだろう」

 そう言った瞬間、ドアの向こうから小さな声が聞こえた。

「静かにしてください。子供が……寝てるので」

 穏やかな声だ。

 声を抑えて

「入っても良いかな?」

「どうぞ」

 近づくとドアの隙間から少し甘い匂いがした……嫌な予感がした。

 ゆっくりとドアを押し開けると、それが腐敗臭だと理解した。ゾンビの腐臭はさっき嫌になるほど嗅いだ。だがこの腐臭はもっと生々しい。

 不快感を覚えながら先程の声の主を探す。そこに古ぼけたワンピースの上にカーディガン。どこにでもいるような女性がいた。肩までの髪は灰を被って白く、頬は少しこけていたが優しそうな目をしている。

 普通な事こそ異常だろう。腕の中に小さな子供を抱いている。その姿だけ見ればただの母親に見えるが……。

「……あの、それは……」

 光さんが口を開いた。

 確かに〝それ〟としか言いようがないな。子供の形はしていた。3歳くらいか……皮膚は黒ずみ、革のベルトが四肢を拘束していた。ゾンビだ。

「この子、病気なの。でも子どもの食べ物を与えれば……元に戻るの」

 そう言って女は微笑んだ。

「いっぱい食べてくれるから、もう少しで戻るわ」

 慈愛と言うのだろう。表情は優しさに満ち、声には希望がこもっている。

 子どもの食べ物か……どっちなんだろうね。子供が食べる物を与えているなら放置してても良いだろう。

 だが……。壁際に2台のベビーベッドがあった。1台は空だがもう1台は大きな物体の上に赤黒いシーツが掛けられていた。腐敗臭はそこから漂っている。

 やはりそういう事だろうか? 一瞬だけ、言葉が詰まる。

「……ひとつ聞きたい……食べ物はまだあるのか?」

 食べ残しはベッドの上にあるのか?

「可愛いでしょう。ママって呼んでくれるの……もう少しで病気も治るわ」

「食べ物を見せてくれないか?  同じものを用意するから」

 たぶん変異型だ。知性型よりまだ希少。知性型の派生種だという。違いは変異型は感情が残っている。そして亜人が任務中に死ぬ最も多い原因。

「もっと人間の食べ物を集めナいと。街に行カないト。もウ無くなッたノ。早く行かナいト」

 あー、これはやばいかな?  口調が変わってきてるよ。変異型は会話が通じるように見えるがゾンビはゾンビ……急に暴れるんだよね。典型的な話は出来るが会話は通じないってタイプだ。ちなみに亜人が差別される原因。話が出来るゾンビ。亜人と見分けがつかないよ。

「可愛いの。治るの。子どもノ食べ物。ママって。悪いこトシてなイ。はヤく。マちに。にンゲん。たべルの。コども……」

 あー、駄目か。言っちゃったよ。そうすると近くの街まで人間を狩りに行ってるのか。汚染地帯からゾンビが自分の意思で出た初めての例かもな。

 光は何も言わなかった。ただ、両手を胸の前で組んで祈るような姿勢を取った。胸もとの灯火が淡く揺れる。鎮魂かな?  他人事じゃ無いんだろうね。

「落ち着いてよ。お母さん。もう少しお子さんの話を聞かせて」

 肩を軽く叩くと

「治療の途中なの」

 お、戻った。

 女は首を傾げて言う。穏やかに、当たり前のように。

「少しずつ戻るの。この子、昨日まで泣いていたけど、今日は笑ってるの。ね、可愛いでしょう?」

 まだ大丈夫か? なら聞いてみるか。

「そこのベッドの上は食べ残しか? なぜそこに置いてある?」

 捨てれば良いだろうに。

「この子達は薬になってくれたのよ。だからゆっくり寝てもらってるの……寝ていればこの子達も治るわ」

 口調は正気だが中身がもう駄目だ。本当に駄目だろう。いやもうこれの正常がこれなのかね。あー、俺が動揺してるな……

 女の存在は、理性と狂気の境界線の危うさを教えてくれる。

「……仕方ない。仕方ないね。どうにもならない。どうにかなることなんてあるのかねぇ。せめて、安らかに死んでくれ」

 俺は壁際に這うようにある水道管を掴む。力いっぱい引っ張ると引きちぎれた。古い病院だからね。露出水道管も多い。今日の相棒は君ということで頼むよ。

「仁くん……」

 光さんが小さく呼ぶ。

「分かってる。残念だ。仕方ない。これが現実だ。助けられない。どうにもならない」

 念仏のようにつぶやく。

「だけどさ言葉をいくら並べても納得できないんだよ!  だけど終わらせないと駄目なんだ!  誰かが終わらせないとな……」

 あー、血が上る。ラグナがいないと調子が狂うな。落ち着かないと。光さんもいるんだ……少しは落ち着かないと。

 女は子供を庇うように立ち上がる。その瞬間、腕の皮膚が裂け黒い筋が血管みたいに浮かぶ。瞳が濁り、口角が裂けた。希少種の変異型ゾンビ。優しすぎるがゆえに壊れた母親の成れの果て。

「可愛いの。笑ってくれるの。この子は。治るの。まマって。守るノ。絶対に。マモる。わタシが産ンだ、まモル、赤ちゃん、守る、手を出すなあああっ!」

 理性的に聞こえていた言葉が、咆哮へと変わる――その瞬間、壁が吹き飛んだ。俺は身をかがめ振り下ろされた腕をかわす。風圧で灰が舞う。速くて強いな。奈落の力を全て肉体強化に回してる。分身バカとは違うな。真っ当に強い。

「仁くん、やめて! この人……!」

「分かってるだろう!  まだ子どもを食わせるつもりか!  ここからは綺麗事じゃ済まないんだよ!!」

 水道管を振り抜く。骨が砕ける音。皮と肉と骨が飛び散る。何度も何度も叩きつける。女の、いやゾンビの腕が千切れ飛ぶ。小型ゾンビも一緒に吹き飛んだ。

「いヤ、ダメ、待ッて、マモる、マまっテ、イやイヤァぁァァ」

 もう一度叫びを上げた。

「ぐっ!」

 急に俺の腕が爆ぜる。洒落にならない威力だな。骨まで吹っ飛んだ。仕方ない。蹴りに変える。右腕が無くなったからバランスが取りにくい。数度、数十度蹴り続けるとやっと動きが鈍る。それでもゾンビは泣きながら、小型ゾンビを呼んでいた。

「すまない。俺が弱いから無駄に痛めつけた」

 俺は言い訳を吐いた。

「……偽善だな」

 苦く呟く。

 灰が舞い降り、世界が灰色に戻る。

「……それでも」

 俺は再生した腕で水道管を握ったまま呟く。

「……いい夢を見てくれ」

 痛みが無いように。強く速く水道管を振り下ろした。


 光はただ小さく呟いた。

「優しかったね……あの人」

「自分の子供に子どもを食わせた化け物だ」

「……仁くん」

「同情するな。引っ張られるぞ」

 本当に化け物になれれば楽なんだろうがね。


 帰り道、灰の向こうに明るい光が差していた。汚染地帯ではありえない光景。単なる偶然だろう。でも……もし奇跡があるなら……救われて欲しいな。


 

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