第9話 散歩に行こう

 第9章 散歩に行こう


 任務を終えて、限界汚染圏〈灰野〉の仮拠点に戻った。風が鉄骨を叩き、粉塵が窓にへばりつく。

 それでも、この中だけはまだ“人の匂い”が残っていた。古い整備工場を改造しただけの建物だが、照明は点き、湯気の匂いが漂っている。

 戻ってこれた、という実感がやっと湧いた。


「霧ヶ原は……良い天気かしら?」

 光さんが空を見上げて呟いた。

 灰野の空は、いつも灰色だ。

「霧ヶ原ならここよりは明るくて暖かいさ」

「うん、きっと晴れてるわ」

 その笑顔は少し無理をしていたが、それでも確かに“人の笑顔”だった。


 扉を開けると、ポットから湯気が立っていた。

 ラグナは俺たちに気づいていたのか古い金属ポットを磨きながら言った。

「お帰りなさい。無事で何よりです」

「コーヒーでも出してくれたら最高なんだけどな」

「残念ながら、泥水しかありませんよ」

「泥水でもいいから寄越しな」

「泥水と認めてコーヒーを飲むんですか」

 わざとらしく首を振って哀れみの目を向けてくる。そのやり取りに、少しだけ息が戻る。


「そういえば、こっちはどうだった? 生き残りのゾンビとか」

「襲撃はありませんでした。静かなものでしたよ」

 ラグナはテーブルの上に報告書を置く。

「このあたりのゾンビは一掃されたようです。おかげで久々に眠れました」

「そりゃよかった」

「ええ。……あなたたちが帰ってこなければ、静かすぎて眠れなかったでしょうけどね」

 冗談めかした口調はラグナにしては珍しい。

「変異型が出たそうですね」

 ラグナが表情を引き締める。光が小さく頷く。

「ええ。子供を看ていた。普通の母親のように優しくて……でも、壊れてた」

 声が少し震える。ラグナは何も言わず、ポットの湯をカップに注いだ。

 その香りが灰の空気を塗り替えていく。

「変異型は理性を保ったまま壊れていくそうです。哀れな話ですよ」

「ラグナは見たことあるのか?」

「報告だけです。実際に見たら、私もどうなるか……」

「ラグナなら大丈夫だろう? まぁ、見ない方がいいが」

 仁は苦笑してカップを口に運ぶ。温い。日常の味がする。


 光は手を膝の上に置いたまま黙っていた。彼女の指先には、まだ“形を戻す感触”が残っているように見えた。

 昨日まで、あの小さな死体たちを遺体に戻していた手。その手でカップを包み込む。温かさは、生きている証だ。


「変異型は対応に苦慮します。一見中立ですから。処分するか信用を得るかの判断が難しいです」

 ラグナが難しい顔をする。

「亜人と同じだな。だから迫害される」

 俺は苦笑しながら話す。

「そうだな。人間は弱くて醜い」

 ラグナがぽつりと呟く。

「亜人を恐れ迫害する……なのに亜人に頼る。自分たちの命も守れないものに生きる資格はあるんですかね?」

 ラグナは疲れたように話す。

「ラグナは人間に厳しすぎるな」

「私は工作員として色々見てきました」

 彼は目を伏せたまま言葉を続ける。

「ゾンビは、ただ人間を食らうだけだ。だが人間は違う。殺す理由を探す。宗教も、政治も、正義も、信念も、愛も……まるで免罪符を集めてるようですよ」

 光さんはかける言葉を失った。

「死ぬ理由も同じだな」

 俺は苦笑しながら返した。

 俺はゆっくりと考えるように話す。

「だからこそ救われる命もあると思わないか? 光と闇は表裏一体だそうだ。なら殺す理由は生かす理由じゃないのか?」

 ラグナはまだ人間を諦めきれてないと思う。


 だから俺は、

「難しいこと考えてると老けるぞ」

 といつも通り巫山戯る。

「……何度も言いますが私はおじさんではありませんよ」

「若く見せたい時点で歳を取ってるんだよ」

「別に若く見せたい訳ではありません。実際に若いだけです」

「おっさんの理屈だな」

「あなたとは認識が合いませんね」

 いつもの俺たちといる時のラグナに戻る。くだらないやり取りに、光さんが吹き出した。

「ふふっ、二人は仲が良いのね」

「そうですか? どちらかと言うと不倶戴天の敵なんですが」

 ラグナは自分が少し笑っているのは分かっているのかね?

「年寄り扱いがそんなに効いてたのか」

 光の笑い声が拠点の中に広がった。外では風が鉄骨を鳴らしている。

 その音が、まるでこの場所だけ“まだ生きている”と告げているようだった。


「……本当に強いな」

 ラグナがぽつりと言った。

「何が?」

「私たち人間が汚染地帯を歩けば肺をやられて終わりだ。なのに君たちは笑って帰ってくる」

「物理的に強いだけだ。人としてはどうだろうな」

「そうですか? 人間的にも強いと思いますが」


 窓の外では粉塵が舞い、空がうっすらと明るんでいく。

 ゾンビが消えても、奈落は残る。

 奈落があるかぎり、ゾンビは増える。

 そして人が殺され希望を失う。

 だからこそ、人は笑って生きている。

 それは、人が愚かでも強く。弱くても賢い人である証なのかもしれない。

 俺は笑えているんだろうか? いや、俺は笑ってもいいのだろうか?

 分からない、だけど俺には仲間がいる。ならば今はまだ人間として生きよう。


 そうだ。帰ったら、三人で散歩に行こう。バカ話をしながら歩けば、きっとどこまでも行けるさ。

 

 

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