心とは

「『あんま、ネガティブにならないでくれよ。その気持ちは日常に引き継ぐんだから。ということ、思うだけで良いのでは。』と思った。」

ああ、そうか。

俺は、この俺の言う通りに。

そっちの俺、あっちの俺。

そういう認識だった。

記憶という通路が一方通行なだけで。

二つの俺は、断絶されてはいないのだ。

「ややこしいことを考えたせいで、糖分が欲しくなるな。」

糖分。

そういえば、ここから動いてないな。

今の俺の人生は、長いようで短い。

その短い中で、この本から離れた経験がなかった。

もちろん、普通の人生のように長ければ。

これは、おかしな話だ。

「アイスでも、取りに行くか。」

手を、本が置いてある机につく。

もちろん、立ち上がるための一動作に過ぎない。

こんなものは、自然に終えたいものだが。

そこにも、嫌な感覚が走る。

「……何をしている、アイスを取りに行くのだろう。」

つい、そのまま止まった。

ここで、血が付着している手を確認。

その後、驚く。

なんて状況は待ち構えていない。

どころか、手にも机にも変化は見られない。

まあ、当然であるが。

逆に言えば。

特に衝撃のない場面で、不安になった。

そういうことであり。

本が置いてある机ですらも、不快感の対象になってしまっている証であるのだろうか。

と。

そんなことを思う時間があっても、動いてない自分の体を驚いて。

早く立とうと、自分を説得する。

「……あれ?」

腰が上がらない。

「どういうこと?」

たしかに、力はかけている。

そして、直近の怪我はない。

なのに。

何度も試しても、動かない。

透明な板に固定されているような感覚が、俺の努力を無駄だというようだった。

「ヨメ。」

不意に目に入った頁は、俺の台詞ではない一言が書いてあった。

「動くのも、駄目……?」

たしかに、動くのが自由というのなら。

ずっと開いた状態にすれば、呪いの意味を無くせてしまうか。

納得はしたが、動いてはいけないという説明をくれても良かったのではという不満が残る。

そして。

「閉じるか。」

そんな不満はさておき、本を閉じることにする。

「『貴方が五分で、この本のページを閉じる時。普通の人生で言うと、あと何日くらい生きられるでしょうか。俺の普通の人生での寿命を六十年として、お考え下さい。』と心の中に呟いた。」

開いたページには、問いが書いてあった。

「お前も、数学が苦手だろうに……」

言葉が止まる。

止めたというより、喉が緊急停止したようだった。

まさに一心同体である自分を俯瞰して、感動していることに対する不快感。

それを掘り下げるなら、俺自身にエラーが起きたような感覚だった。

「それはさておき、難しい問いだな。」

一日は千四百四十分、それが五分になるなら。

普通の人生の、二百八十八分の一。

寿命は

「約五分の一年、三桁もない……?」

急に浮かび上がる、タイマーの数字。

この時の俺は。

この問いの答えが恐ろしくなったから、俺に伝えたかったのかな。

たしかに、恐ろしい事実だ。

そもそも。

ノートに書いてまで、この問題を伝えたかったこと。

それが、觳觫を物語っている。

このままならば。

もう二桁しか、日は残されていない。

本を閉じるのが、どれだけ勿体ないかを心に教えてくれた。

「本を閉じないで、なにか考える……?」

思い出に浸る、罪の懺悔。

遺言書の内容も考えなければなのか。

なければ、なのか。

「遺言書を書か……」

なければ、だよな。

もうじき、俺は死ぬのだから。

「……だけど。」

俺の人生に、もう新しい景色はないのだから。

「……だけど。」

でも、それでも。

「そんな一日に、面白みがあるのかよ!」

涙腺が熱くなった。

自分の情緒に、自分が驚いた。

夜なのに、勢い任せの大声を出てしまって。

怒りが、それを皮切りに湧き出てくる。

いや。

怒り、だけではないのかもしれない。

拳は小刻みに震え、その形を変えまいとしている。

焦り、戦慄。

死への恐怖、そして。

なにか分からない感情すら含めて、潰すかのような拳。

そんな感情は、心にあるのに。

心に従わないのは、辛いはずなのに。

でも、それに反しながら。

何かを募らせながら。

本を閉じると、物理的に大きな音が生まれた。

「原川さんに告白した。責任感が襲ったのか、ごめんなさいという言葉を残して。走って、去っていった。横を通り過ぎた風は、俺の涙を冷たくした。」

告白するのが、早くないか。

文字を読むのが速くなった俺は、頁が開かれた瞬間に驚いた。

「嘘だろ……!」

そして、短く笑った。

告白の早さも可笑しくはあるが、今日に泣いていたらしい自分と今の自分のギャップ。

記憶が無いから、想像がつかなくて。

そのせいで、笑い声がこぼれた。

「可笑しい、何をしているのだか。」

普段、ひとりごとはあまり言わないのに。

つい、そんなことを口にする。

そして。

ひとりごとを言う自分に、違和感があると分かった頃に思う。

「いや、違う。」

つい、ではなくて。

人生を忘れられる感情に、逃げたくなったから。

口にしたくて、口にしたのだと。

「……馬鹿らしい。」

薄々、気づいているのだ。

全力で笑うことで、純粋な笑い事だと思いたいのだ。

決して、狂ってきているわけではないということで。

面白いことということで、終わりたいのだ。

俺は。

こいつが、俺であることを。

忘れてきている。

当たり前だけど。

今、動かせる体は俺のもので。

こいつも俺。

それは、分かっているが。

俺の人生が、こんな形になっている以上。

生きている感覚が薄れてきていて。

ゲームの中で、キャラクターの人生を見ているみたいで。

そのゲームをやめて、俺の人生を見ることができない。

という感覚だ。

「閉じよう。」

嫌になった俺は、作業的に本を閉じる。

「『自殺してやるよ。』と紙に書いた。」

開かれて、その文を見えた瞬間。

楽しくも、辛くもならない。

幸せな人生だったな、と思った。

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収容の書 嗚呼烏 @aakarasu9339

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