第4話 退職代行

あれは、俺が会社を辞めようとしていた頃の話だ。


三十を過ぎて入った中小のWeb制作会社は、とにかくブラックだった。


深夜残業は当たり前、休日出勤も暗黙の了解。


怒鳴り声の響くオフィス、罵倒が飛び交うチャットルーム。


気づけば、朝起き上がるだけで吐き気がするようになっていた。


「もう限界だ・・・」


そう思ったのは、六月の雨の夜だった。


けれど、直属の上司・・・黒田主任のことを考えると、どうしても退職の意思を切り出す勇気が出なかった。


あの男の目は、いつもどこか濁っていて、俺のミスを探すためだけに生きているようだった。


・・・だから、退職代行を使うことにした。


スマホで「退職代行」と検索すると、無数にサービスが表示された。


その中に、妙に古めかしい名前のものがあった。


「退職代行 ツカサ」


デザインは素っ気なく、昭和の探偵事務所のような文字が並んでいる。


だがレビューには「本当に辞められた」「神対応」「不思議なほどスムーズだった」など良い言葉が多い。


直感で、そこに依頼することにした。


深夜一時。


フォームに入力して送信すると、数分後に電話が鳴った。


「退職代行ツカサです」


電話口の声は、妙に低く、くぐもっていた。


男か女かも分からない。年齢の想像すらできない。


声の向こうで、複数の低い声が、かすかに重なって聞こえるような気もした。


今の状況を説明し、簡単な質問に答えると・・・


「ご依頼、確かに承りました。明朝、御社へご連絡します」


「お願いします・・・」


「ひとつだけ。明日の朝から、決して会社に近づかないでください」


「え?」


「あなたの退職が正式に済むまで、絶対に・・・です」


その「絶対に」の言い回しが、やけに重かった。


翌朝。


会社のチャットツールを開いたまま、俺は布団の上で待った。


八時三十三分。


「全社連絡:本日付けで、佐野は退職となりました。業務引継ぎは不要です」


驚くほどあっさりした文面が出た。


・・・だが、奇妙なことに気づいた。


送信者欄が空白なのだ。


管理者でも黒田主任でもない。


送信元が「不明」になっていた。


その瞬間、スマホが震えた。


【ツカサ】


「退職手続き、完了しました。もう大丈夫です」


思わず安堵で涙が出そうになった。


だが、その安堵は長く続かなかった。


黒田主任から着信があったのだ。


無視した。


だが、数分後にまた鳴る。


十回、二十回と続き、やがて留守電の通知が点滅し始めた。


震える手で再生すると、ノイズ混じりの声が流れた。


「・・・おい、佐野・・・おまえ、どこにいる・・・?」


声の主は確かに黒田主任・・・のはずなのに、どこか違う。


濁った水の底から響いているような、深く歪んだ声。


「おまえ・・・まだ、いるだろ・・・?」


息の漏れ方が、何かが喉奥に詰まったように不自然だった。


背筋が氷のように冷たくなる。


「まだ、いる?」


どういう意味だ?


再び、ツカサからメッセージが届いた。


「会社の番号からの連絡には応じないでください。必要な連絡はすべて私どもを通して行います」


でも、主任の声が気になって仕方がなかった。


・・・そして、俺は一つだけ間違った判断をした。


会社の監視カメラに、アクセスしてしまったのだ。


オフィスの映像が開いた瞬間、心臓が跳ねた。


まだ八時前なのに、電気が点いている。


蛍光灯の白い光が机を照らす。


フロアは無人・・・に見えた。


・・・いや、無人ではなかった。


映像の端に、人影が立っている。


濁った目。


灰色の肌。


口元だけが妙に裂けて、笑っている。


黒田主任だった。


だが、主任は・・・何かが違った。


カメラ越しの主任の身体がノイズのように乱れ、


肩が異様に沈み、背筋はひどく曲がり、首が人間のつくはずのない角度で傾いている。


主任はゆっくりと机の間を歩き始めた。


足を引きずる、重たい動き。


その手にはスマホが握られている。


何度も、何度も操作している。


着信履歴を確認しているのだ。


俺の名前が表示されるたび、主任はその画面に顔を寄せた。


液晶に照らされた主任の顔は、どろりとした黒い液体のように歪み、犬のように揺れる目が、こちらを探していた。


「・・・いるだろ・・・佐野・・・」


カメラ越しに呟いたその声が、どういうわけか、スピーカーから直接聞こえた。


たまらずブラウザを閉じた。


スマホが震える。


【ツカサ】


「会社の者があなたを探しているようです。絶対に外出しないでください」


「あなたの退職は済みました。ですが、会社のサーバーログに『佐野:ログイン中』が、残り続けているため、会社の方はまだ「認識できていない」ようです」


何を言っている?


続けて、もう一文。


「この会社には、辞められない人が多いようですね」


その文字を見た瞬間、背中を汗が伝った。


夜。


外が、風もないのにざわついていた。


窓の向こうで、何かがこすれる音がする。


恐る恐るカーテンを開いた。


マンションの非常階段の踊り場に、主任が立っていた。


いや、主任だった「もの」が。


膨れあがった影。


骨ばった手。


垂れ下がった首。


その手には、スマホ。


画面には、俺の番号。


「・・・佐野・・・まだ・・・いるだろ・・・?」


ガラス越しに声が響いてくる。


その瞬間、スマホが震えた。


【ツカサ】


「決して応じてはいけません。会社にあなたの「気配」が残っているのです」


「あなたの退職は受理されていますが、会社があなたを社員として認識し続けています」


「その認識が完全に消えるまで、あと少しです」


窓の外の影が、ゆっくりとこちらに顔を近づけた。


割れた目が、真っ暗な穴のように動く。


「・・・サノ・・・どこ・・・?」


その時・・・


スマホが再び震えた。


ツカサからの短いメッセージ。


「出ないでください」


直後。


主任のスマホの通話ボタンが押された音がした。


呼び出し音が重なり・・・


俺のスマホが、勝手に応答した。


「・・・いた・・・」


ひやりとした声が、耳元で囁いた。


・・・目の前の主任の影は、口を開いていない。


声は、スマホ越しではなく・・・ 俺の部屋の中から だった。


振り返ると、薄暗い部屋の奥に、黒い影が立っていた。


外に立つ影と同じ姿。


同じ濁った目。


同じ、裂けた笑い。


二つの影が、同時に俺を見ている。


逃げる余裕などなかった。


影が一歩踏み出した瞬間、スマホの画面が真っ黒になった。


画面中央に、たった一行。


「退職処理:完了」


その瞬間、外の影も、部屋の影も、崩れ落ちるように、跡形もなく消えた。


重かった空気が、急に消えた。


翌朝。


ツカサから最後のメッセージが届いた。


「これで本当に大丈夫です。あなたはもう、あの会社の社員ではありません。どうか、良い未来を」


それ以降、主任からも会社からも、一切連絡はなかった。


だが、いまだに思う。


・・・退職代行ツカサとは、何だったのだろう?


後で調べてみたが、サイトのドメインは十数年前に失効したままだった。


俺の勤めていた会社は?黒田主任は?謎ばかりが残った。


そして、もし、あの時、最初の主任からの電話に出ていたら・・・


俺は今も、あの会社に「在籍」したままだったのだろうか。


今でも、スマホの通知音が鳴るたび、会社の内線音に聞こえて、背筋が冷える。


そして、あの濁った主任の声が、耳の奥に残っている。


「・・・いるだろ・・・?」






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怪談! 階段甘栗野郎 @kaidanamaguri

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