第3話 裏路地の猫

夜の街を歩くとき、決して入ってはいけない路地がある。


そんなことを言い出したのは、会社の後輩の村瀬だった。


「課長、あの通り知ってます? 南口の裏、ラーメン屋の脇に細い道があるんです。昼は普通なんですけど、夜に行くと・・・猫が出るんです」


笑い話のつもりで言ったのだろうが、そのときの村瀬の目はどこか本気だった。


俺は軽く受け流して、その日はそれで終わった。


だが数日後、村瀬は突然、会社を辞めた。


退職理由は「体調不良」。


けれど、その翌週、彼が住んでいたアパートの裏手で、妙な騒ぎがあったと風の噂で聞いた。


猫の死骸が十匹以上、路地に並んでいたという。


首がないものもあったそうだ。


犯人は、誰かだとか、猟奇事件だとか噂となっていた。


村瀬の話を思い出したのは、それから一か月ほど経った夜のことだった。


残業を終え、駅へ向かう途中、ふと南口の路地が視界に入った。


暗く、細く、奥が見えない。


まるで地面ごと闇に吸い込まれていくような路地だ。


その入口に、一匹の黒猫がいた。


尻尾が、二股に分かれていた。


俺は息を呑んだ。


見間違いだと思い込もうとしたが、猫は月明かりの下で静かにこちらを見上げ、確かに二つに裂けた尾をゆらゆらと揺らしていた。


気づけば、足が路地の中へと動いていた。


アスファルトは湿っていて、どこか生臭い匂いが漂っていた。


奥には古びた民家の裏口や、錆びた看板の残骸。


壁の隙間には猫の影がいくつも動いている。


その全てが、こちらを見ているように思えた。


やがて、黒猫が立ち止まった。


行き止まりの壁の前で、くるりと振り返る。


「・・・おいで」


そう、声がした気がした。


低く、湿った声だった。


だが誰のものでもない。


壁の脇には、古い木戸が半ば崩れた形で残っていた。


猫はその隙間にするりと消える。


俺も無意識のうちに手を伸ばしていた。


木戸を押し開けると、中には畳の間が広がっていた。


明かりはないのに、やけに鮮やかに見える。


畳の上にはちゃぶ台があり、その上に湯呑と湯気の立つ急須。


そして、白い着物を着た老婆が座っていた。


「遅かったねえ」


老婆は、にやりと笑った。


口の端から白い髭がのぞいていた。


その目の奥で、黒猫のような金の光がちらついている。


「村瀬の友達かい?」


その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。


どうして彼の名前を・・・。


「来ると思ってたよ。あの子も最初は「猫を助けよう」なんて言ってたけどね」


老婆はゆっくりと手を伸ばし、ちゃぶ台の下を指した。


そこには、干からびた猫の死骸がいくつも積み重なっていた。


皮が破れ、骨が見えている。


尾の先が、どれも二つに分かれていた。


「うちの子たちは、よく働いてくれるんだよ。人の「想い」を食うのが好きでねえ。あの子も、たくさん食べられたさ」


笑いながら、老婆は自分の首筋を撫でた。


その手が、黒い毛に変わっていく。


耳が尖り、口が裂け、爪が伸びる。


老婆の姿が、巨大な猫の影に溶けた。


「・・・もう、ここに来たからには、帰れやしないよ」


その声とともに、畳の下から無数の猫の手が伸びてきた。


足首を掴まれ、引きずり込まれる。


目の前で、黒猫がこちらを見ていた。


その金色の目の奥に、村瀬の顔が一瞬、浮かんだ気がした。


「・・・課長、来ちゃ、だめだったのに」


俺は叫ぼうとしたが、声にならなかった。


視界が暗転し、気づいた時には、駅のホームに立っていた。


腕時計を見ると、終電が出る三分前。


シャツの裾が湿っていて、泥と毛が絡んでいる。


ポケットの中には、小さな鈴が入っていた。


赤錆びた古い鈴。どこかで聞いた音だと思った。


・・・チリン。


鈴が鳴るたび、耳の奥で猫の鳴き声がした。


振り向いても、誰もいない。


ただ、ホームの端に、二股の尾を揺らす黒い影が立っていた。


その晩から、家の周りで猫の声が絶えない。


夜になると、ベランダの手すりを何かが歩く音がする。


寝入りばなに、ふと耳元で囁く声が聞こえる。


「・・・もう、こっちにおいで」


あれから何度も鈴を捨てようとした。


けれど、朝になると必ず枕元に戻っている。


昨日などは、会社のデスクの引き出しにまで入っていた。


そして今日。


玄関の前に、黒猫が一匹、座っていた。


尻尾が、やはり二股に分かれている。


金色の瞳で、俺を見上げていた。


「遅かったねえ」


その声は、老婆のものでも、村瀬のものでもなかった。


俺自身の声だった。


鈴が鳴る。


チリン・・・。


外の闇が、ゆっくりと膨らんでいく。


足元で何かが動く感触。


次の瞬間、視界が反転した。


世界が裏返る音がした。


暗闇の中で、無数の目が光っていた。


猫の群れが、俺を見上げている。


皆、尾が二つに割れている。


その中に、村瀬もいた。


いや、村瀬だったものが。


猫の声が、溶け合うように響く。


「・・・ようこそ。裏路地へ。」


それが、最後に聞いた言葉だった。

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