第2話 倉庫の残響
あれは、私が今の会社に勤めて三年目の秋のことでした。
私は都内にある中堅の物流会社で働いています。
主な業務は商品の在庫管理と発送で、日中は事務所で伝票を処理し、夕方以降は倉庫の確認や棚卸の立ち会いをすることが多い。
とくに夏場は繁忙期で、毎日が残業続きでした。
問題の倉庫は、本社ビルから少し離れた川沿いにあります。
築四十年以上経った鉄筋コンクリートの建物で、外壁はくすんだ灰色、窓は小さく、夜にはほとんど廃墟のように見える。
昼間に見てもどこか陰気な雰囲気があり、できることなら近づきたくない場所でした。
その倉庫には、いくつか妙な噂がありました。
「夜中に中から人の話し声がする」
「誰もいないはずなのに、二階の窓から女が覗いていた」
「搬入口のシャッターの隙間から、白い手がのぞいていた」
社内では誰も真面目に取り合っていませんでしたが、古株の社員は「倉庫には夜遅く一人で入るな」と、口を揃えて言っていました。
その日、私は上司から急な棚卸の確認を頼まれました。
「至急、明日の出荷分の在庫をチェックしておいてくれ。悪いけど、今日中にな」
時計を見ると、すでに夜の八時を回っていました。
事務所には私一人。
断ることもできず、仕方なく倉庫へ向かいました。
川沿いの道を歩くと、蒸し暑い空気の中にかび臭い匂いが漂ってくる。
倉庫の巨大なシャッターは下りており、横の鉄製の扉から中に入ると、むっとするような熱気と、油と埃の混じった匂いが私を包みました。
天井の蛍光灯はところどころ切れていて、光がまだらに落ちている。
奥のほうは半ば闇に沈み、棚が林立する様子はまるで巨大な迷路のようでした。
私は手元の懐中電灯を頼りに、伝票を片手に在庫の確認を始めました。
最初のうちは機械的に数を数え、チェックを入れていくだけでしたが、十分、二十分と経つうちに、背後の闇が気になり始めました。
「キン」
どこかで、金属が触れ合うような音がしました。
振り返っても、そこにはただ積まれたパレットと暗がりがあるだけ。
気のせいだ、と自分に言い聞かせ、作業を続けました。
しかしその直後、また「カタン」
今度は棚の奥から、確かに何かが倒れる音が響きました。
嫌な汗が背中に滲みます。
こんな時間に、他の社員がいるはずはない。
出入り口の扉は私が開け、しっかり閉めた。鍵も掛けてある。
「・・・猫でも入り込んでるのか?」
そう思いながら、懐中電灯を掲げて棚の間に歩みを進めました。
奥へ進むにつれ、空気が重たく淀んでいくのを感じました。
やがて一番奥の棚に差し掛かったとき、不意に耳の奥をかすめるような声がしました。
「・・・ねえ」
誰かが、小さく囁いたのです。
懐中電灯の光を振り向けても、そこには誰もいない。
ただ段ボールの山と、黒く沈む空間が広がるばかり。
鼓動が早鐘のように鳴り、呼吸が浅くなる。
「気のせいだ、疲れてるんだ」と、必死に自分を納得させ、在庫の確認を済ませようとしたそのときでした。
「・・・ギィ・・・ギィ・・・」
二階へ続く古い階段が、軋む音を立てたのです。
この倉庫の二階は、十年以上前に使用をやめ、誰も立ち入らないはず。
段ボールや古い什器が山積みにされ、立ち入り禁止になっていると聞いていました。
それなのに、確かに誰かが階段を上っている。
光を向けても、そこには誰の姿もないのに。
私はたまらず倉庫を飛び出そうとしました。
しかし、足が扉へ向かう前に、視界の端に「それ」が映ったのです。
二階の手すりの向こうから、女がこちらを覗いていました。
長い黒髪が顔を覆い、白い作業服のようなものを着ている。
顔の半分が闇に沈み、ただ目だけが、光を反射しているのではなく、自分でわずかに光っているように見えた。
私は息を呑み、懐中電灯を落としました。
「カラン」と乾いた音が響き、光は床で転がり、棚の影を大きく揺らす。
その瞬間、女はゆっくりと階段を降り始めました。
「ギィ・・・ギィ・・・」
一歩ごとに、木の段が悲鳴を上げる。
私は必死に体を動かそうとしましたが、なぜか足が床に縫い付けられたように動かないし、声も出ない。
やがて女は一階に降り立ち、こちらに向かって歩いてくる。
その顔は、青白く、頬が痩け、口元が裂けたように歪んでいました。
あと数歩で触れられる距離になったとき・・・
「おい、何してるんだ!」
突然、背後から声が飛びました。
振り返ると、上司の佐々木課長が立っていました。
気づけば、女の姿は消えていました。
女の姿が消えたあと、倉庫の奥から、誰かの囁きが聞こえた気がした。
「・・・まだ、ここにいるの」
私は青ざめた顔で事情を説明しました。
課長は渋い顔をしながらも、黙って倉庫の奥を確認しに行きました。
もちろん、そこには誰もいなかった。
帰り道、課長がぽつりと言いました。
「・・・やっぱり見たか。実はな、この倉庫で昔、事故があったんだ」
十数年前、この倉庫で夜間作業をしていた派遣の女性が、二階から転落して亡くなったというのです。
重い什器を運んでいて、足を滑らせたらしい。
以来、夜遅くに倉庫へ入った人間が、彼女の姿を見たという噂が絶えなかったそうです。
「俺も昔、一度だけ見た。もう二度と夜には入りたくない」
課長は苦々しげにそう言いました。
それからというもの、私は夜の倉庫に入ることができなくなりました。
たとえ残業を命じられても、どうしても足がすくんでしまうのです。
けれども今でも時々、川沿いを歩いていると、あの倉庫の二階の窓から、長い髪の女がこちらを覗いているような気がするのです。
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