怪談!
階段甘栗野郎
第1話 声のする集会所
山あいの小さな集落に、不動明王の古いお社があった。
村人はそれを「お不動さま」と呼んでいた。
杉林に囲まれた社殿は苔むし、屋根の一部が朽ちていた。
ある年の春、ついに改修工事が決まり、ご本尊を一時的に集会所へと移すことになった。
ご本尊は、手のひらほどの木像だった。
丸みを帯びた木像、厳しい顔の中にうっすらと笑みを浮かべている。
けれど昔から、村で病が流行るたび、誰かがその像に祈ると不思議と治まるという。
氏子総代が軽トラックに木像を乗せ、村人たちが白布をかけて集会所へ運んだ。
和室の隅に机を並べて祭壇を作り、花と蝋燭を供えた。
「しばらくの間、ここにいてもらうだけや」
そう言って総代は柏手を打った。
そのとき、外の空気が少しだけ冷たくなった気がしたが、誰も気に留めなかった。
・・・最初の異変は、その夜から始まった。
夜の山は早くに眠る。
虫の声も、あの晩に限って途絶えていた。
集会所の鍵を閉めに行った老人が、奥の部屋から声を聞いたという。
子どもが泣いているような、くぐもった声。
覗いてみると誰もいない。
ただ、ご本尊の前に置いた花瓶の水面が、小さく揺れていた。
翌日には、別の者が「夜に灯りが点いていた」と言い出した。
誰もいないはずの集会所で、障子の向こうに影が動くのを見たと。
村人たちは最初こそ冗談にしていたが、日を追うごとにその噂は、はっきりしていった。
「・・・かえして」
「・・・ここはちがう」
そんな、かすれた囁きが、夜ごとに聞こえるというのだ。
その頃、集会所の近所に、小学六年のAという少年がいた。
両親は共働きで、夕方になると一人で遊ぶことが多い子供だった。
ある日、友達と別れた帰り道、ふと集会所の前を通りかかると、障子の向こうから誰かが呼んだ。
「・・・おいで」
声は小さく、優しかった。
Aは恐る恐る戸を開けた。
中は薄暗く、線香の匂いが漂っている。
祭壇の前に立つと、蝋燭の火がゆらりと揺れた。
ご本尊の木像が、まるで呼吸をしているように光って見えた。
「あなた、しゃべったの?」
Aがそう尋ねると、返事はなかった。
けれど次の瞬間、耳の奥に声が響いた。
「・・・さむい」
Aはびくりと肩をすくめ息が止まりそうになった。
背中に、氷の指でなぞられたような冷たさが走った。
外はもう夕暮れ。山の端に太陽が沈みかけている。
「ごめんなさい、ぼく・・・何もできない」
そう言って戸を閉めた。
家に帰ると、Aの部屋の隅に、なぜか一輪だけ白い花が落ちていた。
その夜、夢の中でAは森を歩いた。
杉の木立の奥に古いお社があり、屋根のない社殿の前で誰かが泣いている。
その顔は、ご本尊の木像とそっくりだった。
翌朝、Aは母にその夢の話をした。
母は笑って、「あんたも怖い話が好きね」と取り合わなかった。
だがその晩、再び集会所から声がしたらしい。
今度は、近所の人が外から聞いたという。
「子どもが泣いとるような声やった。でも戸を開けたら、誰もおらん」
Aは気になって、次の日の放課後も集会所へ向かった。
鍵はかかっていた。
窓の隙間から中を覗くと、祭壇の前に何かが立っていた。
白い影・・・小さな人の形をしたものが、ご本尊に顔を寄せている。
Aは声を失い、その場に立ち尽くした。
やがて影がこちらを振り向いた。
その顔には、目も口もなかったが、風に巻かれる布のように動く。
影の周囲の空気が冷たく震える、畳が、湿った音を立てて軋んだ。
Aは叫び声を上げて走り出した。
その頃、改修中のお社でも不思議なことが起こっていた。
工事をしていた作業員の一人が、足場から転落して大怪我をしたのだ。
「祟りじゃないか?」
そんな噂が広まり、工事は一時中断された。
村の古老が口を開いた。
「お不動さまの像は、社の土の上に鎮めの石がある。その上におられてこそ、力が保たれる。集会所に移すのは、あの方の「居場所」を奪うことなんじゃ」
それを聞いた総代は顔を青くし、翌日にはご本尊をお社へ戻すことを決めた。
Aの証言も後押しになった。
「木像が泣いてた」「寒いって言ってた」
子どもの言葉として笑う者もいたが、もう誰も夜の声を否定できなかった。
翌朝、村人総出で行列を組んだ。
軽トラックの荷台にご本尊を乗せ、Aも父に連れられて参加した。
春の風が冷たく、鳥の声が遠い。
森の入り口に立つと、不意にAの胸の奥で、あの声がした。
「・・・ただいま・・・」
お社は新しい檜の香りに包まれていた。
台座にご本尊を戻し、総代が柏手を打つ。
その瞬間、鳥居の上を風が駆け抜け、木々の葉が一斉にざわめいた。
空が明るくなり、どこからともなく鈴の音がした。
誰かが「風が止んだ」と呟いた。
それきり、集会所の声は二度と聞こえなくなった。
数日後、Aは友達とまた集会所の前を通った。
あの日見た白い影のことを思い出し、足を止める。
障子の向こうは静かで、昼の光が畳に広がっている。
耳を澄ますと、ほんの一瞬、風の音にまじって小さな声がした。
「・・・ありがとう」
Aは振り返ったが、誰もいなかった。
それでも、胸の奥が少しだけ温かくなった。
その晩、村の空には、ひときわ明るい星がひとつ、瞬いていた。
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