第3話 ―藤田の記憶―

 あいつと付き合い始めたのは、二年の春だった。

 入学して一年、クラスの雰囲気にも慣れてきた頃。

 由梨はいつも明るくて、笑うと目尻に小さなえくぼができた。

 誰にでも話しかけるタイプで、最初は軽い子だと思っていた。

 けれど、ふとしたとき見せる“寂しそうな目”に、なぜか惹かれた。

 告白は俺の方からだった。

 帰り道、雨が降っていて、赤いジャージの上着を傘代わりにして肩を寄せ合った。

 「濡れたら風邪ひくよ」

 そう言いながら笑う彼女の髪が、湿った街灯の光を受けてやけに綺麗だった。

 その夜、寮に帰ってからも、彼女の笑顔が頭から離れなかった。

 あのときは本気で、「ずっと一緒にいられる」と思っていた。

 けれど、一ヶ月もしないうちに違和感が出てきた。

 授業の後、知らない男子と話しているのを何度か見た。

 由梨に聞くと、「ただの友達だよ」と笑っていたけど、その笑い方がどこか空っぽだった。

 ある晩、実験レポートを出しに校舎へ行った帰り、俺は見てしまった。

 グラウンドの端で、由梨が別の男と並んで歩いていた。

 月明かりの下、赤いジャージの袖口が風に揺れていた。

 俺は声をかけられず、ただ遠くから見ていた。

 ——あの夜、彼女の後ろに、もう一人“赤いジャージの人”が立っていたことを、今でもはっきり覚えている。

 由梨とまったく同じ姿、同じ髪、同じ表情で。


 次の日、彼女は何もなかったように笑っていた。

 けれど、時々ぼんやりと窓の外を見つめては、こう呟くようになった。

 「ねえ、藤田くん。あの人、また見てるんだ」

 「誰のこと?」

 「……赤いジャージの人」

 笑いながら言ったその声が、ひどくかすれていた。


 六月のある日。

 放課後に呼び出された校舎裏で、由梨は泣いていた。

 「もう、誰も信じられない」

 俺は言葉を失った。慰めようとしても、彼女は首を振るばかりだった。

 そのとき、背後から潮風が吹き抜け、遠くで波が砕ける音がした。


 「藤田くん、ありがとうね」

 そう言って笑った彼女の目は、どこか諦めたように見えた。

 そのあと、由梨は消えた。

 崖の下から見つかったのは、赤いジャージの上着だけだった。


 あれから何年も経った。

 俺はもう卒業して、呉を離れた。

 だが、たまに夢に見る。

 夜のグラウンドに立つ赤いジャージの人影。

 由梨と同じ声で、俺を呼ぶ。


> 「ねえ、藤田くん。今度は、ちゃんと見ててね。」


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