第5話 視線のはじまり

 朝の教室は、昨日の匂いがうっすら残っている。

 私は廊下側、前から二列目の席にカバンを置いた。窓の光は届かないけれど、ここは人の出入りが多いから、誰が来て誰が行くかがよく見える。


「由衣、今日早いじゃん」


 前の席の小林が振り返る。

「書道部、部誌の締切りだって。職員室寄るから、ついでに」


「展示さ、昨日見た。写真と絵、あれ—なんか息しやすかった」


「ありがと」


 そう言うと、ちょっと照れくさくて、筆箱の中身を並べ直した。消しゴムの角がもう丸い。昨日、家で何度も線を引いては消したせいだ。


「おはよう」


 すぐ横から声がした。

 藤宮だった。いつも通りの笑い方で、手にプリントを持っている。特に飾り気はないのに、話しかけるときはちゃんと目を見る人だ。


「展示、写真の角度よかった。フェンスのやつ」


「ありがと。光が斜めに入ってる時間、狙った」


「だよね。説明に頼ってない感じが好き。……あ、褒めすぎ?」


「褒められ慣れてないだけ」


「じゃあ慣れて」


 さらっと言って、彼は自分の席に戻った。

 その会話を、教室の奥から朝倉が一度だけ見て、すぐノートへ視線を落としたのが見えた。見間違いかもしれない。でも、たぶん見ていた。


 廊下では、雪村が水筒のフタを閉めながら通り過ぎた。ふとこちらへ視線が来て、私と藤宮、それから朝倉の順番で止まった。立ち止まりはしない。ただ、歩幅が半歩だけ遅れた。


 チャイムが鳴った。


     ◇


 一限と二限の間の休み時間、私は文化祭の安全書式の控えをファイルから出した。釘の数、パネルの高さ、テープの種類。実行委からチェック済みの朱印が押してある。紙の端を触ると、昨日の粉がまだ指に残った。


「由衣」


 朝倉が机の脇に来た。

「今日、昼休み、展示室行ける? 光の具合、昼は変わるから」


「行ける。二十分くらいなら」


「十分でいい。……ごめん、緊張する?」


「大丈夫。昨日よりは」


 短く答えると、朝倉は「よかった」と言っただけで離れていった。いつも通りの距離。だけど、いつもよりほんの少し真面目な顔に見えた。


 そのあとすぐ、藤宮がノートを抱えて近づく。


「昼、展示室いる? 俺も行く。係に頼まれて記録写真撮るんだ」


「じゃあ、時間かぶるね」


「うん。邪魔しないようにするから」


 言い方は軽いのに、目だけは真面目だった。

 重くならないようにしているのが分かる。そういうところ、少しずるいくらいに上手い。


     ◇


 昼休み。

 展示室は半分ほど人がいて、みんな声を抑えていた。私はキャプションの角を指で軽く押して、テープが浮いていないかを確認した。昨日の二時二十分ほどではないけれど、壁の白は十分に明るい。


「ここと、ここと……」


 朝倉が、壁から二歩下がって全体を見た。

「由衣、フェンスの線、少しだけ右に寄せたほうが写真の反射と重ならない。いい?」


「いい。詩織が透明ピン持ってきてくれてる」


「助かる」


 私はケースからピンを出し、角度を変えた。小さな音で留まる。「ありがとう」と言うと、朝倉は一度だけ頷いた。


「写真、数枚、撮っていい?」


 いつの間にか藤宮が入口に立っていた。

 実行委の腕章をつけている。


「記録用に。SNSに上げるやつは先生に確認するから、顔写さない」


「うん。お願い」


 藤宮は人の流れが切れるタイミングを待って、静かに数枚撮った。無駄に連写しない。動きが落ち着いている。

「ありがとう」と言うと、「こっちこそ」と、少し照れた笑い方をした。


「佐伯さん、——その、顔色いい」


「そう?」


「昨日より、目が上に向いてる。……変なこと言った?」


「いや、分かる人には分かるのかも」


「分かるよ」


 藤宮はそこで余計な言葉を足さない。

 私はキャプションに目をやった。

『泣いたことは消さない。乾く前に光った、その一瞬を渡す。』

 自分で書いたのに、読むときはいつも少しだけ手のひらが汗ばむ。


 ふと背後で、別のクラスの女子二人が小声で話すのが聞こえた。


「この字、震えてるのがいいよね」


「練習で整えちゃうと嘘っぽくなるもんね」


 息を吐く。少し楽になる。


 振り返ると、朝倉が壁に寄りかかっているのが見えた。腕を組むでもなく、ポケットに手を入れるでもなく、両手を下げて立っている。いつも、その立ち方だ。


 そこへ、雪村が展示室に入ってきた。

 彼はまず全体を見て、それから私たちのほうを見た。視線は泳がない。以前と同じ、まっすぐな目だった。


「よく考えてあるな。——先生がそう言ってた」


 言葉の選び方が以前より少し丁寧だと思った。

「ありがとう」と答えると、彼は作品に近づき、キャプションを読んで、数秒黙った。何を考えたかは言わない。言わないことが、今はちょうどいい。


 その横を、写真部の一年の女子が通った。

 スマホの待受が、うちの展示の一部になっているのが目に入った。本人は気づかれたことに気づいていない。こういう“見てくれる人”が増えたのは嬉しい。でも、少し怖い。怖いけれど、それでも見せたい。昨日決めたことを思い出す。


「じゃ、俺は係のところ戻る。午後の人の導線、混む時間だけ横で立ってるから」


 藤宮が言う。

「また来る。明日の朝も、たぶん」


「うん。ありがとう」


 目が合った。

 あのタイプの笑い方は、ずるい。こちらの力を抜かせる。


 藤宮が出ていったあと、朝倉が口を開く。


「……良い子だな、藤宮」


「うん。良い子」


「由衣、疲れたら言って。入れ替えの時間、避けるほうがいい」


「分かった」


 言葉は短いのに、どれも必要な言葉だけだった。

 それで十分だった。


     ◇


 午後の授業の合間、廊下で実行委の女子に呼び止められた。


「佐伯さん、明日の午前、在廊お願いできる? 十一時まで。混む時間だけでいいから」


「大丈夫」


「助かる。あ、SNS、校内限定タグ伸びてる。荒れてないから安心して」


「見た。ありがとう」


 教室に戻ると、席にメモが置かれていた。

『ピン、透明の予備を実行委室に置いておきます。—詩織』

 なんでもない筆跡が、急にありがたくなる。詩織は言葉を足さないで、必要なことだけ置いていく。十年も友だちをやっていると、そういうところに一番救われる。


「由衣」


 席に座る前に、朝倉が来た。

「放課後、五分だけ屋上」


「分かった」


 雪村が黒板を見ながらノートを取っている。視線は前。こちらは見ない。そのままでいい。私も前を見る。


     ◇


 放課後。

 屋上は解放されていて、フェンスの影が細く延びていた。風は強くない。

 私と朝倉は、フェンスから少し離れて立った。今日のことを報告する必要はない。どちらも分かっている。だから、話は短い。


「明日の二時二十、影は今日より薄いと思う。天気予報、雲が高いから」


「じゃあ、キャプションの位置、このままで良さそう」


「うん。……由衣」


「なに」


「昼の、藤宮とのやり取り、良かったよ」


「良かった?」


「うん。ちゃんと話して、ちゃんと作業に戻る感じ。それが一番良い」


 それだけだった。

 でもそれだけで、十分だった。


「朝倉は?」


「俺は……少し、下手だったかも」


「なにが」


「視線のやり場。見ないようにして、余計に変だった」


「そう?」


「そう。——気をつける」


 笑ってしまった。

「気をつけるって言うの、朝倉らしい」


「らしい?」


「うん。真面目」


 朝倉は笑うでもなく、「それは得意だから」と言って肩を少しだけすくめた。

 風に乗って、遠くの体育館から合唱の音が流れてきた。練習の声は、どのクラスも似ている。歌詞が聞き取れなくても、揃えていこうとする息の音が分かる。


「じゃ、明日」


「うん、明日」


 屋上を出る前、私はフェンスの網に指をかけて一度だけ押した。金属の冷たさが、はっきりと伝わる。ここにいたことが分かるだけで、少し安心する。


     ◇


 昇降口で靴に履き替えていると、藤宮が後ろから来た。

「おつかれ。これ、実行委から。明日の在廊札」


「ありがとう」


「由衣ってさ、——ごめん、質問していい?」


「いいよ」


「好きって言葉、簡単に使わないよね」


 私は少し考えた。

「うん。たぶん、簡単に使うと、あとで自分が困るから」


「分かる。俺、わりとすぐ好きって言っちゃうタイプなんだけど、展示見てからは、ちょっと考えるようになった。『好き』って言う前に、『どこがいい』って言えるほうが、相手に届くのかなって」


「届くと思う。少なくとも私は、そういうほうがありがたい」


「よかった。……じゃあ、今は言わない」


「なにを」


「それは、今は言わない」


 言って、少し照れた顔をした。

 こういう正直さは、ずるいと思う。でも嫌ではない。

 藤宮は続けた。


「明日さ、時間あったら、展示室の前に行くまでの動線、一緒に見ていい? 人の流れ、ここで少し詰まるから、案内の立て札置いたほうがいい気がする」


「いいよ。実行委に確認とる」


「OK。じゃ、また明日」


 明るいのに、うるさくない。

 軽いのに、適当じゃない。

 そのちょうどいい場所に、彼はいつも立つ。


     ◇


 家に帰ると、母が「おかえり」と声をかけた。

 夕飯は、魚の塩焼きと味噌汁。夏前らしい、簡単な献立だ。

 食卓で今日の話をする必要はない。聞かれたら答えるけれど、聞かれなかったら、それでいい。母とはだいたい、その距離感だ。


 部屋に戻って、机にスケッチブックを開いた。

 キャプションを写す。字は相変わらず少し震える。練習しても、癖は消えない。でも、震えは恥ではないと、昨日決めた。


 スマホが震えた。

 詩織から。《明日、在廊の間、私は入口横にいる。倒れそうな人見たら肩で支える。ピン予備は実行委室》

 《ありがとう》と返す。


 続けて、朝倉から。《明日、二時二十の前、教室で一度水飲むこと。忘れそうだから先に言う》

 《了解》


 さらに藤宮から。《立て札の件、先生OK。明日一緒に置こう》

 《ありがとう》


 通知が三つ並ぶ。

 それだけのことが、今は心の支えになる。

 私はペンを置いた。


 ——今日、私は誰かの影ではなかった。

 そう思うと、胸の奥がゆっくり温かくなる。

 誰かに見られるのは怖い。でも、ちゃんと見ようとしてくれる目があるなら、怖さは少し減る。


     ◇


 布団に入って電気を消すと、今日の会話がいくつか浮かんだ。

 藤宮の「今は言わない」。

 朝倉の「良い子だな」。

 雪村の半歩遅れた歩幅。


 誰も、私を争っていない。

 誰も、誰かを悪く言わない。

 それでも、たしかに何かが始まっている。


 好き、という言葉はまだ遠い。

 でも、私の足はたしかに前を向いている。

 負けかどうかは、たぶん結果じゃなくて、立ち方で決まる。


 目を閉じる。

 明日の二時二十を思い出す。

 数字はお守りになる。今日もそうだった。


 眠る前、心の中で小さく言った。


 ——私は、もう負けヒロインじゃない。

 泣いたことがある人間として、ちゃんと立つ。


 その言葉が、今日の終わりにちょうどよかった。


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