第4話 まだ名前のない光

 文化祭の朝は、空気がうすく澄んでいた。

 六月の水気はまだ残っているのに、重さがなかった。

 胸の奥の水は、沈殿して、静かに光っていた。


 洗面台の前で髪を結ぶ。

 いつもより丁寧に梳かしたのに、指先は少しだけ震えていた。

 緊張というより――“なにかを渡す日”の感覚。


 母が台所からこちらをちらりと見る。


「今日、文化祭の準備の日だったわよね?」


「うん。展示、設営する。」


「そっか。」


 それだけ。

 でも、声がやわらかかった。


 家を出ると、朝の風がスカートの裾を揺らした。

 日差しはまだ強くない。

 光は薄いフィルムみたいに肌の上を滑った。


 学校に着くと、美術室の前にはすでに詩織がいた。


「おはよ」


「おは」


 それだけで、呼吸が揃う。

 十年の友達は、挨拶で空気が決まる。


「緊張してる?」


「ちょっと。……いや、ちゃんと緊張してる。」


「それ、良い緊張。」


 詩織はトートバッグを肩からずらして、扉を引いた。


     ◇


 展示室は、昨日のままだった。

 けれど、今日の光は違う。

 斜めに差す白が、壁に淡く影を落としている。


 噴水の写真。

 濡れたアスファルト。

 フェンス。

 その上に重ねられた、私の“影と光”。


 そして、その下に置かれたキャプション。


わたしは今日、暗い場所を塗り重ねて、

そこに残った白を光と呼ぶことに決めた。


 声に出さなくても、胸の奥で読めた。


「……できたんだね。」


 振り返ると、朝倉が立っていた。

 今日の彼は、いつもより少しだけ目の下が赤く見えた。

 寝不足とかじゃなくて――

 なにか、思い出していた人間の目。


「色、落ち着いたね。」私が言う。


「うん。光が、ちゃんと呼吸してる。」


 彼は作品に触れない距離で、指先を少し浮かせた。

 触れないのに、“触れている”みたいな空気の手つきだった。


「……今日、俺は少し離れて見るよ。」


「どうして?」


「展示って、“渡す”側の時間だから。

 俺が近くにいると、その時間を邪魔しそうで。」


 その言い方に、胸が静かに揺れた。

 優しさじゃなくて、理解。

 理解って、優しさより強いときがある。


「でも、ちゃんと見てる。」


「うん。」


 朝倉は微笑んだ。

 目元は穏やかで、でも奥にひっそり影があった。


 言葉にしなくても伝わる影――

 “誰かを失ったことがある人”の影。


     ◇


 人が集まりはじめた。


 足音。

 ざわめき。

 ページをめくる音。

 展示室に、現実が流れ込む。


 私は、作品の横に立たない。

 少しだけ離れる。

 見られる自分と、見ている自分を同時に生かすために。


 最初に立ち止まったのは、後輩の女の子だった。

 無言で写真と線を追っていく。

 最後に、キャプションのところで呼吸が変わった。


 胸の奥に、なにかが落ちたみたいな呼吸。

 その微細な変化は、作品をやっている人間なら分かる。


 伝わった。


 知らない誰かに。

 言葉を交わさなくても。


 ただそれだけで、涙が落ちそうになる。

 でも、泣かない。


 泣かないんじゃない。

 泣く必要が、もうない。


     ◇


 そして――


「由衣。」


 名を呼ぶ声で、空気が一段、変わった。


 雪村だった。


 隣には、あの子がいた。

 手は繋いでいないけど、距離は近い。


 心臓が、“痛い”ではなく “思い出す” みたいに動いた。


「見に来た。」


「ありがとう。」


 言葉は、驚くほどちゃんと出た。

 震えなかった。


 雪村は作品を見て、キャプションを読んで、

 最後に私ではなく、展示全体を見た。


「……由衣の絵、前より強い。」


 その言葉には、嘘がなかった。

 優しさでもなかった。

 ただ、見たままの言葉だった。


「うん。強くなった。」


 ちゃんと答えられた自分に、自分が少し驚いた。


 隣の彼女は、小さく微笑んだ。


「これ、好き。

 泣きそうになるやつじゃなくて、息できるようになるやつ。」


 昨日、佐々木が言ったのと同じ言葉だった。


 世界は、たまにちゃんと響く。


     ◇


 すれ違っていったあと。

 私の胸には――痛みは、なかった。


 でも、廊下の奥で、誰かの声がした。


「……まだ引きずってるのかな。」


 立ち止まらなくてもわかる。

 見せ場に水を差すつもりじゃなくても、

 そういう言葉は、空気の狭いところに落ちる。


「強いんじゃなくてさ。終われてないだけなんじゃない?」


 胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっとなる。

 痛みじゃない。

 “思い出す”のほう。


 詩織は振り向かない。

 ただ、私の袖に触れずに、そっと距離だけ寄せた。


「由衣。」


「……大丈夫。」


「うん。“大丈夫じゃないけど前に行く”でしょ。」


 その言葉で、呼吸が戻る。

 私は、自分の足の向きを一度だけ確かめる。


 前に向いていた。


 代わりに残ったのはただひとつ。


あ、終わったんだ。


 終わらせたんじゃなくて、

 終わって、今、私は生きてる場所にいるんだ。


 その感覚が、静かに、底で光っていた。


     ◇


 そして。


「由衣。」


 背中から呼ばれて振り返る。


 朝倉だった。


 けれど、さっきより――

 目が少しだけ遠かった。


「……少し、外、歩かない?」


 階段を降りて、校庭の脇を抜けた。

 六月の終わりは、風が草の表面だけを撫でていく。

 土の匂い。鉄棒の冷え。遠くで太鼓の音がして、体育館のほうから合唱のリハの声が流れてきた。


「ここ、人が少ない。」


 正門の外、通学路から一本ずれた遊歩道に出る。

 並木の影が、アスファルトの上で折り畳まれている。

 歩幅を半歩、私に合わせるみたいにして、朝倉が歩いた。


「さっき、雪村とその……」


「うん。見に来た。」


「大丈夫だった?」


「大丈夫。——いや、正しくは、“大丈夫じゃない瞬間もあったけど、前に行けた”かな。」


 私が笑うと、朝倉も口角を少しだけ上げて、うなずいた。

 沈黙がつづく。重くない沈黙。

 鳥の声と、自転車のブレーキ音と、遠い救急車のサイレン。

 その上に、私たちの足音が薄く重なる。


 横断歩道の前で立ち止まると、彼はポケットの内側に指先を触れた。

 スマホを出さないまま、ただ布越しに少しだけ押す動き。

 昨日も見た癖。


「……ごめん。」


「大丈夫。聞かないよ。」


「うん。ありがと。」


 信号が青に変わる。

 私たちは渡り、並木が切れるところで右に曲がった。

 小さな神社の前に、古いベンチがある。

 座る。木の板が日差しで少し温かかった。


「喉、渇いてない?」


「少し。」


 彼は自販機に向かって、小銭を鳴らした。

 戻ってきた手には、無糖の炭酸水と、よく冷えた麦茶。


「どっち?」


「麦茶。」


 受け取ると、缶の冷たさが掌の熱を持っていく。

 プルタブを起こしたとき、指に小さな水滴が付いて、太陽に透けた。


「由衣の展示……」


 彼は缶の縁に唇をつける前に、言葉を探すみたいに一度だけ視線を落とした。


「“前の前”が写ってる感じがした。」


「前の前?」


「うん。“光る直前”。

 消える瞬間じゃなくて、——消えることを知る直前。

 そこが一番、世界が本当になる。」


 私は頷いた。

 それは、彼がいつか言った言葉の続きだった。

 「光って、消える前がいちばんきれい」。

 今日の彼は、その手前を見ていた。


「だから、作品に近づきすぎないんだね。」


「そう。近づくと、俺の体温で“前の前”が動くことがある。

 ああいうのは、触らないほうが届くときがあるから。」


「わかる。」


 私は麦茶を一口飲んで、息を整えた。

 飲み込むと、のどの奥が少しひんやりする。


「……俺さ。」


 朝倉が缶の天面を親指で擦り、白いアルミのかすかなザラつきを確かめるみたいにして、言った。


「去年の夏、川沿いで、写真を撮ってた日がある。

 夕立が来て、濡れた路面が鏡みたいに光って。“今だ”って構えた。

 でも、その日だけ、——一枚が足りなかった。」


「足りなかった?」


「うん。手が動かなかった。

 目の前の光に、『次の瞬間も続く』って、なぜか思ってしまって。」


 彼は笑った。自分を責めないほうの、静かな笑い。


「続かなかった。」


 風が、ベンチの下を抜けた。

 砂の粒が、靴底でかすかに鳴った。

 私は聞かない。

 けれど、彼の言葉の“欠けた輪郭”を、ちゃんと受け取って、体に置く。


「そのあと、しばらく、写真の白が増えた。

 白ってさ、何も写ってない空白じゃないんだよね。

 “触れなかった場所”の跡。

 だから俺、——白を見ると、けっこう、安堵する。」


「安堵?」


「うん。届かなかったことを、ちゃんと覚えていられるから。

 忘れてないって、証明になる。」


 私は、彼の横顔を見た。

 目尻に少しだけ疲労の影がある。

 けれど、その影があることで、今日の彼の光はやさしかった。


「ねえ、朝倉。」


「うん。」


「私、今日、“終わったんだな”って思った。」


 彼は、わずかに目を見開いて、すぐに目を細めた。


「そうか。」


「うん。終わらせた、じゃなくて、終わった。

 だから、たぶん私は、今日から書き始めるんだと思う。」


「いい言葉。」


「ありがとう。」


 彼は缶を置いて、手のひらを膝の上で広げたり閉じたりした。

 何かを掴む練習をしているみたいだった。


「……由衣。」


「なに。」


「もし、展示の前で苦しくなったら、逃げてもいい。

 逃げても、作品はそこにいる。

 呼吸してる展示は、倒れない。」


「昨日のメッセージ。」


「そう。言い切っとく。」


 私は笑った。

 笑うと、胸の奥の水が、陽に透けて色を変える感じがする。


「ありがと。」


「ありがとうはこちら。」


 彼は立ち上がった。

 影が少し伸びる。

 昼が、ゆっくり午後に傾きはじめていた。


「戻ろう。」


「うん。」


 ベンチを離れるとき、私は指で座面をそっと押した。

 さっきまでの自分の体温が、木に薄く残っている気がした。

 残っているけれど、もう私のものではない。

 それでいい、と素直に思えた。


     ◇


 戻ると、展示室の空気はさらに濃くなっていた。

 人の呼吸と紙の匂いが混ざり合って、少しだけ温室みたいな体温。


 私たちは離れて立つ。

 私は壁際、朝倉は入り口の柱影。

 詩織は人の流れの間に立って、危なくないようにそっと肩を支えたり、足元に落ちているピンを拾ったりしている。

 三人で、空気を見ていた。


 キャプションの前で、立ち止まる人たち。

 涙をこらえようと深呼吸するひと。

 写真を撮るひと。

 じっと見て、何も言わずに立ち去るひと。

 それぞれの時間が、私の作品の前を通過していく。


 途中で、SNSの通知が走った。

 学校公式のタグで、誰かが作品の一部を撮って上げたらしい。

 《乾く前に光った、その一瞬を渡す》

 その一行だけが、画像に収まって、タイムラインを泳いでいく。


 胸がザワッとした。

 見られたいけど、怖い。

 怖いけど、見られたい。

 矛盾が、喉の奥に丸い石みたいに詰まる。


 詩織と目が合った。

 彼女は何も言わず、息を吸って吐く動作だけを見せた。

 私も合わせる。

 吸って、吐く。

 それで、少しずつ、重さは底に沈んでいった。


 そのとき、キャプションの前で立ち止まっていた初老の女性が、そっと手の甲で目元を押さえた。

 すぐに笑って、隣の子に「きれいね」と言った。

 ——その小さな仕草が、今日いちばんの光だった。


 私は壁際で、足の親指をキュッと曲げた。

 地面に爪が少し触れるあの感じ。

 詩織に言われた「癖」を、私は自覚して、そっと解いた。

 泣くときに机の角を押す指。

 今日は押さない。

 押さないで、立つ。


     ◇


 夕方近く、人の波がいったん引いて、展示室が薄く空になった。

 換気の風が入って、紙の端がサラサラと鳴った。


「少し、外の光を見よう。」


 朝倉が柱影から出てきて、私を呼んだ。

 詩織に目で合図すると、彼女は「行って」と言った。

 担任が巡回している姿を確認して、私たちは廊下へ出た。


 窓からの光は黄金色に寄りはじめて、階段の踊り場を斜めに切り取っている。

 手すりの金属が細く光る。

 階下から吹き上げる風が、私の髪を少しだけ持ち上げた。


「由衣、屋上まで行ける?」


「行ける。」


 二人で階段を上がる間、彼は何も言わなかった。

 でも、沈黙の種類が違った。

 誰かの隣で、言わないままで安心できる沈黙。


 ドアを押し開けると、空が近かった。

 雲が薄くちぎれて、空の青が濃くなっていた。

 フェンスの影が床に細く伸び、そこに私たちの影が静かに重なった。


「去年の夏の話、——今の俺が言えるぶんだけ、言う。」


 朝倉はフェンスに手を触れず、拳を数センチ浮かせた。


「ほんとは、もっと前から撮ってる。

 でも、あの日の一枚がない。

 川沿いで、夕立のあとの匂いがして、路面の水がオレンジ色にひかって。

 “今だ”って分かってたのに、——シャッターが下りなかった。」


 鳥が一羽、近くの屋根を横切った。

 羽音は聞こえないのに、空気が少しだけ震えた気がした。


「その日を境に、俺は“記録”じゃなくて“跡”を撮ってる。

 写ってないものが、写ってる。」

 彼は小さく笑って、首を振った。

 「言いすぎだな。」


「言いすぎてないよ。」


 私はフェンスの網の間から、校庭のラインを見た。

 白いラインの端が、風で乾きかけている。


「私にも、書けなかった日がある。

 泣いた夜、机に向かったけど、紙が真っ白のままで。

 でも、あの日の白を、今日、やっと“残された光”だって思えた。

 朝倉の白も、きっと、残っていい白なんだと思う。」


 彼は私を見て、ゆっくりと息を吐いた。

 目の奥の影が、少し動いた。

 深くじゃない。

 でも、確かに、動いた。


「……由衣。」


「うん。」


「ありがとう。」


 不意打ちの、まっすぐな“ありがとう”。

 それは、慰めでも礼儀でもなく、同じ場所に立っている人間同士の言葉だった。


 風が吹いた。

 フェンスの影が、床の上で細かく揺れた。

 私たちはしばらく、その揺れを見ていた。


 屋上から戻ると、校内は片付けの時間になっていた。

 ガムテープの芯が床に転がり、はけの洗い場から水の音がした。

 展示室に戻ってパネルの固定をもう一度押さえると、指の腹に紙の粉が少し付いた。


「由衣、ここ、ピン一個足していい?」


 詩織が壁の下辺を指した。

 私は頷く。

 彼女の親指が、透明ピンをスッと押し込む。

 “コツッ”。

 その音で、今日が締まった。


「在廊コメント、聞かれたら?」


「泣かないための展示です、って言う。」


「よし。100点。」


 笑い合って、教室を出る。

 廊下の窓から見える空は、さっきよりも深い。

 夕焼けに行く手前の、透明な青。

 “消える前”じゃなくて、“夜に向かう前”。

 今日はずっと、前の前と手前ばかりを見ていた。


 校門を出るところで、詩織が「私、先に帰るね」と言った。

 トートバッグを肩にかけ直し、手を振る。

 「明日も在廊する」。

 ありがとう、と返す。


 道に二人だけになった。

 商店街のシャッターが半分だけ下りかけて、パン屋からまだ少し甘い匂いがした。


「夕飯、何だろ。」


「とうもろこし。」


「いいな。」


 会話はそこまでで、また沈黙になった。

 でも、沈黙の形が、朝と違う。

 朝の沈黙は、作品を渡す前の緊張の沈黙。

 今の沈黙は、渡したあとに残る“余白”の沈黙。

 どちらも必要な、呼吸の間。


「今日さ。」


 朝倉が言った。

 歩きながら、親指でカメラストラップの端をゆっくり擦る。

 ほころびかけた糸が一本だけ出ていて、それを引っ込めるみたいな動き。


「由衣の“終わった”って言葉、——好きだった。」


「ありがとう。」


「終わったって言えるの、すごい。

 俺、まだ、たぶん“続いてる”から。」


 私は彼を見て、すぐに前を見た。

 やわらかい痛みが、胸の奥で灯りみたいにともる。

 燃えない。

 照らすだけ。


「続いてるなら、続いてていいと思う。

 白があるってことだよね。

 だったら、そこは大事にしていいと思う。」


「うん。」


 交差点で信号が赤になって、私たちは並んで立った。

 車の通る音、靴のゴムがアスファルトに触れる音。

 彼はポケットには触れなかった。

 代わりに、ストラップから親指を離して、両手をぶらりと下げた。

 空いた手の存在が、夕方の空気のなかでやけにくっきりした。


「——明日、さ。」


「うん。」


「朝一で、光の具合、また見に行く。

 二日目の二時二十は、今日より影が薄いと思う。」


「なんで分かるの?」


「分からないけど、分かる。」


 笑ってしまった。

 彼も笑って、信号が青になった。


     ◇


 家に帰ると、台所にとうもろこしの香りがあった。

 母は「おかえり」と言って、何も聞かなかった。

 私は「ただいま」と言って、靴を揃えた。

 部屋に入ると、机の上のスケッチブックを開いた。

 ページの端が少し毛羽立っていて、今日の指の跡が残っている。


 ペンを取る。

 今日の出来事を日記にするのではなく、一行だけ書く。


“終わった”と言えた。呼吸は、そっちに向いている。


 ペンを置く。

 スマホが震えた。

 詩織から、展示の写真。

 キャプションの上に落ちる夕方の光が、噛むみたいに白い。

 《明日も在廊。由衣は10時からでOK?》

 《OK。朝倉と光チェック後に行く》

 《りょ》


 また震えた。

 朝倉から。

 《今日はありがとう。屋上、助かった》

 《こちらこそ。話してくれてありがとう》

 少し間があって、

 《“終わった”の文字、好きだった》

 《残しておく》

 《うん》


 画面の白が、やわらかく見えた。

 私はスマホを伏せて、ベッドに仰向けになる。

 天井の白は、今日の私の白と同じに見えた。

 空白じゃない白。残していい白。


 目を閉じる。

 耳の奥で、昼間の“カシャッ”というシャッター音が、もう一度だけ鳴った。

 呼吸のテンポと同じ速さで。

 安心する速さで。


     ◇


 文化祭二日目の朝。

 私は約束どおり、朝倉と特別教室に入った。

 まだ誰もいない展示室で、光の角度を手の甲で測る彼。

 二時二十のラインを、床にテープでそっと印して、剥がして、位置を覚える。


「昨日より、やっぱり影が薄い。」


「ほんとだ。」


 私たちは顔を見合わせて、笑った。

 昨日の笑いと違う笑い。

 名前はまだないけれど、きっと——そっちに向かう笑い。


 展示の前に立って、私は胸の奥に手を当てる。

 こわい、でも、見せたい。

 その矛盾は今日もある。

 でも、体はもう、前に行くやり方を覚えている。


 “見せる覚悟”。

 先生が言った言葉が、今は脅しじゃなくて合言葉みたいだ。


 朝倉が入口に戻る。

 いつもの柱影。

 けれど、彼はほんの少しだけ、光のほうに身体を向けた。

 喪失は続いている。

 白は、残したまま。

 それでも、身体が、そっちへ傾く。


 私は深く、息を吸った。

 吐いた。

 呼吸が、光のほうへ押し出される。


好きかどうかなんて、まだわからない。

でも、呼吸が、そっちに向いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る