第6話 揺れのある視線
朝のガラスは、昨日よりもよく景色を映した。
昇降口で上履きに履き替えながら、私は在廊札の角を指でなぞる。十一時まで展示室。二時二十の光は、今日もお守りだ。
正面の窓からグラウンドが見える。
雪村がキャプテンマークを巻いて、後輩に短く指示を出していた。通る声。早口ではないのに、聞き間違えない。視線がふっとこちらへ来て、半歩だけ止まる。会釈はしない。代わりに、私は歩く速さを少し落として、教室へ向かった。
◇
一限のチャイムが鳴る前、藤宮がプリントを抱えて私の席に来た。
「動画は不可、写真はOK。入口右に“動画不可”の札、置こう。高さは目線揃えで」
「了解。七時五十分、展示室前集合で」
「任せて」
プリントを手渡すとき、指が触れそうな距離で止まった。
触れない距離に、意識の形だけが残る。こんな感覚、知らなかった。
彼はすぐに手を引き、冗談も言わずに戻っていく。明るいのに、今日は静かな明るさだ。廊下側の席を過ぎると、窓の外を見ていた朝倉が一度だけ目を上げ、藤宮の背中と、私の机の上の在廊札、それからプリントの端に少し残った私の鉛筆の粉を順番に見た。
目は何も言わないのに、順番だけが小さな感情みたいに並ぶ。
◇
十一時前、展示室。
キャプションの角を軽く押すと、テープがよく貼りつく音がした。昨日拭ききれなかった指紋は、もう見えない。透明ピンの頭を布で拭く。指の腹に冷たい感触が残る。
扉が開いて、雪村が入ってきた。
汗は引いて、ジャージの裾に土が少し。練習の合間らしい。
「在廊?」
「十一時まで」
「そっか」
彼は作品に向かい、写真→線→キャプションの順で見る。目が止まる時間が、前よりわずかに長い。読み飛ばさない目。
私の心臓は、痛みではなく“思い出す”動きをした。
「……強いな」
独り言みたいに言ってから、こちらを見る。
「前は、こういうの、ちゃんと見られてなかったと思う。見る前に結論だけ持ってた」
「うん」
「練習でさ、最近“止まる”が前よりできるんだ。勢いだけで走らない。止まりすぎると崩れるけど、止まらないともっと崩れる。——たぶん、ここに来てから余計に考えるようになった」
「止まるの、難しいよね」
「難しい。……それと」
言い淀み、視線を窓に逃がし、戻す。
「俺、由衣に謝りたい気持ちがゼロじゃない。でも、今それを言うのは違う。戻りたいとかじゃない。今の由衣をちゃんと見ないで“終わった”って思ったまま次へ行ったら、また同じ失敗すると思って。」
言葉はまっすぐだった。
私は立ち位置を半歩ずらして、彼の正面から少し斜めに退く。視界の端に、作品が入る角度。呼吸が楽になる。
「見に来てくれて、ありがとう」
「うん。——安心した。悔しいとかじゃなくてさ。言葉にすると薄くなるけど」
「分かる」
胸の奥が、水面の下でそっと揺れた。痛みじゃないのに、形だけは似ていた。
「あとさ」
雪村が少しだけ声を落とす。
「藤宮、いいやつだな。」
胸の筋肉が固まる前に、私は頷いた。
「うん。いいやつ」
「**朝倉も。**展示の距離の取り方、ちょっと真似できない」
名前が重なる。
嫉妬は言葉に出てこない。でも、雪村は展示室の入口のほうを一瞬見た。そこに人影はないのに、出入りの線を確かめるみたいに。
「由衣が誰と話してても、今の感じなら、俺、普通に嬉しい」
それは以前の彼が言えなかった種類の言葉だった。
「ありがとう」と返すと、彼は小さく息を抜いて「じゃ、戻る」と手を上げた。
扉に向かう途中、もう一度だけ振り返る。
「明日、試合前にまた寄る。ここに寄ると、頭の使い方が整う感じがする。——じゃあな」
“じゃあな”が、前より柔らかい。
扉が閉まる。展示室の空気が、元の静けさに戻る。
読む目は、変わっていく。私も、変わっていく。
◇
昼休みの少し前、朝倉と階段ですれ違い、短く報告する。
「来た。言葉、前より丁寧だった」
「そうか」
そこで会話を切るのが、朝倉だ。
でも、彼は半歩遅れて口を開いた。
「——藤宮と、入口で話してた?」
「動画不可の札の位置を確認しただけ」
「うん」
“うん”が一拍長い。
次の言葉は出てこない。彼は自分でその“長さ”に気づいたのか、視線を階段の踊り場に落とす。
「二時前に、水」
「分かった」
会釈して別れる。
階段を降りる間、**彼の“うん”の長さが、胸に少しだけ残った。**言葉にしない温度は、長さで残る。
◇
昼。展示室。
藤宮が実行委の腕章をつけて入ってくる。入口の右に立て札を置き、通行の矢印を床に貼る。動きはいつも通りだが、私のキャプションの前で立ち止まる秒数が、昨日より長い。
「配置、ここで良かったな」
「うん。見やすい」
「……手、震えてない?」
「ちょっと緊張した時だけ」
「そうか。——良かった」
“良かった”のあと、何か言い足そうとして、言わない。
代わりに、立て札の高さを数ミリ下げる。
**無意識の“何かを自分の手で整えたい”**が、道具へ向かう。
そこへ、雪村が入口の影に立つ。
藤宮に気づいて、軽く顎を引く。藤宮も同じように返す。声は交わさない。二人とも、声を出すと何かが動くことを知っている顔だ。
「在廊、午後は?」
雪村が私にだけ聞く。
「二時まで。二時二十分の光、今日は薄いかも」
「わかった」
“わかった”が、少し早い。
雪村は作品をもう一度見て、すぐ引いた。引く時に、藤宮の位置をほんの一瞬だけ確認した。無意識のライン確認。
彼が出ていくと、藤宮が立て札をもう一段低くした。
「これで、視線が由衣の字に行きやすい」
「ありがとう」
藤宮は「うん」と言って、入口のガラス越しに外を見た。
彼の視線は作品から外へ、外から私へ、私からキャプションへと戻る。無意識の“見回し”が、気遣いと、少しの独占欲の境目で揺れる。
◇
放課後。
グラウンドのフェンスの外から、私は練習を見る。
雪村は止めるときと出すときの切り替えが早く、怒鳴らない。後輩の動きを指で示す。止める技術をさっき展示室で語ったとおりに、練習でも使っているのが分かった。
「見学?」
背中から声。藤宮だ。
「帰り道。ちょっとだけ」
「雪村、変わったよな。止めてから出す。前は“全部出す”だった」
「分かる」
「在廊札、明日の分。先生から預かり」
「ありがとう」
手が触れない距離で止まり、二人とも一瞬だけ指先を見る。
同時に、フェンスの向こうで笛の音。私たちの視線は音へ逃げる。逃げた視線が戻るとき、藤宮の視線は私の頬に一度、キャプションの言葉を思い出すみたいに止まってから下りた。
「——“泣かない”ってさ、泣かないように我慢するんじゃなくて、泣く必要が減るってことなんだな」
「うん。減った」
「よかった」
“よかった”が、今日二度目の言葉だと気づく。
彼はそれ以上言わず、フェンスの向こうのボールの音に耳を傾ける。**嫉妬は、言葉より“沈黙の選び方”に出る。**自分の言葉で埋めないという選択。埋めたら軽くなることを知っているから、埋めない。
そこへ、朝倉が自転車を押して現れた。
展示の写真バックアップを、町の写真屋で頼んでいたらしい。袋を持っている。
「帰り?」
「うん」
私が答えると、朝倉は藤宮に小さく会釈した。藤宮も同じように返す。
目の高さが一瞬だけそろい、すぐ解ける。
朝倉は私の手に袋を渡す。
「湿気で波打つといけないから、今夜は封を切らないで。明日の二時前に開けよう」
「了解」
「了解」の私の声に、藤宮の目が少しだけ動く。
指示されることが嬉しい種類の“了解”じゃない。信頼の段取りに対する“了解”。その違いに、藤宮は気づく。**無意識の胸の奥が、わずかに押されて戻る。**表情は変わらないのに、靴のつま先が半歩だけ後ろに引かれた。
「じゃ、俺は実行委のほう戻る」
藤宮はそう言って、入口の立て札をもう一度見る。
“動画不可”の文字の高さは、朝倉が言った“明日の二時前に開けよう”という段取りの高さとは別の高さだ。二つの高さが、同じ場所には立たない。
彼はそれを見てから、短く手を振って去った。
残った私と朝倉は、フェンス越しに練習をしばらく見た。
「由衣」
「なに」
「……さっき、階段で“二時前に水”って言ったとき、俺、言い方が少し変だった」
「うん」
「気づいてた?」
「長かった」
「長かったか」
“長かったか”に、苦笑いが一滴だけ混じる。
彼は自分で気づいて、自分で直そうとしている顔になった。
「——焦ってない」
朝倉は、自分に言い聞かせるように言う。
「大丈夫。別に焦らなくていい」
「うん。分かってる。分かってるけど、長くなる」
その言い方が少しおかしくて、笑ってしまう。
彼も笑って、練習を見た。
「雪村、止めるの上手くなった」
「うん。展示に来てそう言ってた」
「そうか」
朝倉はそこで一拍置いて、言い直すみたいに続ける。
「——良かった」
“良かった”は、藤宮も朝倉も言う。でも、意味が違う。藤宮の“良かった”は届いたの“良かった”。朝倉の“良かった”は届いても揺れないの“良かった”。
どちらも、私にはちょうどいい。
◇
帰り道、商店街。
ショーウィンドウのガラスに、私が映る。血色は悪くない。
スマホが震えて、詩織から。《明日、入口横。二時前に水。倒れそうな人見たら肩で支える》
《ありがとう》と返す。
連続で震える。朝倉から。《予備プリント、湿度OK。写真屋が褒めてた》
《ありがと》
もう一つ。藤宮から。《立て札、先生OK。明日は混むから、入口側で“止めてから流す”やる》
《助かる》
通知が横に並ぶ。それぞれの“係”の視線だ。
争う人は誰もいないのに、心は少しずつ揺れる。
その揺れは、悪くない。生きている感じがする。
◇
夜。
スケッチブックを開く。今日の線は短くていい。一本、二本。
消しゴムの角がまた少し丸くなる。
指先に黒い粉。洗えば落ちるけど、今日は残してから落とす。
ペンで短く書く。
今日、雪村は“謝る”より先に“見る”を選んだ。
藤宮は“埋めない”沈黙を選んだ。
朝倉は“長くなる”ことに気づいて、言い直した。
書いてから、もう一行だけ足す。
私は、誰かに決められる前に、自分の歩幅を自分で決める。
電気を消す。
暗闇の中、昼の二時二十を思い出す。数字はお守り。
私の心はもう、誰かを求めて泣く場所にはいない。けれど、誰かに触れられて揺れる場所には、まだ立っている。
その場所が、今の私にちょうどいい。
◇
翌朝。
七時五十分、展示室前。
藤宮が立て札を抱えて待っている。
「おはよう」「おはよう」。
高さを合わせる。彼は“届く”ほうを選ぶ。
少し遅れて、朝倉が封を切っていない写真屋の袋を持ってくる。
「湿気は大丈夫」「了解」。
彼は“崩れない”ほうを選ぶ。
始業前、雪村がジャージ姿で一度だけ覗き、「あとで来る」と短く言って去る。
彼は“止めてから出す”ほうを選ぶ。
三人の“選び方”は違う。
その違いが、私にはまぶしい。
そして、少しだけくすぐったい。
チャイムが鳴る。
私は在廊札を首にかけて、ドアを押した。
光はまだ薄い。二時二十までは、今日の揺れと一緒に、深呼吸で待つ。
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