第3話 見せる理由

 六月の終わりは、呼吸がうまくできない。

 空気が湿っぽいとか、気圧がどうとか、そういう理屈じゃない。

 胸の奥にずっと、言葉にならない水が溜まっている感じ。

 泣かないと決めたはずなのに、まだどこか濡れている。


 ホームルームが終わって、生徒たちがざわつく中、文化祭実行委員が言った。


「展示出す人は、キャプション忘れんなよー。

 “作品意図”ね。自分が何を見せたいのか、文字にするやつ。」


 教室の空気が、にわかに気まずくなる。

 だって、“自分が見せたいもの”なんて、簡単に言えるわけない。


 でも、私はノートにその言葉を写した。

 そして指でなぞった。


 見せたいもの。


 見せたいものは、ある。

 あるけど――怖い。


 だけど。


 だけど、逃げたくなかった。


 屋上に向かう足を止めた。

 風に紛れれば楽だと分かっているのに、今日は行かない。


 私は、美術室へ向かった。


     ◇


 美術室は、息をする前に記憶を思い出させる場所だ。

 石膏像の白と、油絵具と、まだ乾ききらないキャンバス。

 そこに、自分の中に残ってる“泣き終わらなかった日”が全部浮かんでくる。


「失礼します」


「どうぞー」


 美術の大谷先生は、今日も前髪に白い絵の具をつけたまま。

 たぶん気づいてない。そこが好きだ。


「文化祭展示、出すんだって?」


「はい。写真と……絵を、合わせて。」


「いいね。でも、ひとつだけ。」


 先生は筆を置いて、まっすぐ私を見る。


「見せるってことは、誰かの心に触れるってことだよ。

 触れるなら、中途半端は許されない。

 触るなら、ちゃんと“届ける覚悟”を持ちな。」


 それは、痛いほどまっすぐな言葉だった。


「……わかってます」


「じゃあ描け。そこで。光が入る席。」


 イーゼルを引き寄せると、木が床を擦る音が小さく響いた。

 紙を固定して、鉛筆を握る。


 一本目の線は震えた。

 でも、二本目、三本目と重ねていくうちに、震えが呼吸と重なっていく。


 線の中に息が通る瞬間――


 思った。


涙は、乾く前に光る。


 泣いたことは消したい。

 でも、泣いたという事実を光に変えることなら、できる。


 だから描くんだ。


     ◇


「……いると思った。」


 振り向く前に分かった。

 詩織だ。


 彼女は迷いなく真っ直ぐこっちに来る。

 まるで、私の居場所なんて、初めから全部見えていたみたいに。


「由衣、今日、屋上じゃなくてこっちだと思った。」


「なんでわかるの」


「十年の友だよ?」


 詩織は、隣の椅子に座る。

 ちゃんと隣――真正面じゃなくて。

 逃げ道を奪わない場所。


「描いてる顔さ、負けず嫌いの顔になってる」


「……負けたくないってほどでもない」


「違う。前に進みたいときの顔。」


 言われて、胸の奥が少しあったかくなった。


 詩織は絵を見て、すぐ言う。


「見せるんだよね?」


 その言葉は、優しさじゃなくて確認。

 でも逃げ道は用意したまま。


「……見せたい。

 怖いけど、見せたい。」


「じゃあ聞くね。なんで?」


 なんで。

 本当はずっと言いたかった。


「光を、もらったから。」


「光?」


「好きだった人に……終わり方は綺麗じゃなかったけど、

 それでも、私が“生きたい”って思える瞬間を、確かにくれた。

 その光を、影ごと、返したい。」


 詩織は一瞬だけ目を伏せて、笑った。


「なら、もっと“暗く”して。」


「暗く?」


「影が浅い。いい子のまま描いてる。」


詩織は4Bを手に取り、紙の端を深く塗りつぶした。

その手つきは、乱暴じゃなくて、迷わない。


「泣いた日も、震えた朝も、ちゃんと跡ごと塗りな。」


そこで詩織は一度、ペン先を止めた。

スカートの端を、無意識に指でつまんでいる。


「……ほら、由衣ってさ、泣くとき、机の角を爪で押すでしょ。

 それも描きなよ。知ってるから。」


 詩織は4Bを手に取り、紙の端を濃く、深く塗りつぶした。

 そして練り消しを押し当て、わざと乱暴に剥がした。


 紙の繊維が起きて、光がそこに滲み込む。


「ほら。

 痛みがある場所にしか、光は生まれない。」


 胸が、ぎゅっと熱くなった。


「壊したら……戻らないよ」


「戻らないなら、それが今日の私でいい。」


 詩織の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。


「……強くなったね、由衣。」


     ◇


 そのとき――


 ドアが開いた。


「ここにいると思ってた。」


 朝倉だった。

 額に少し雨が残ってる。


「はじめまして。詩織さん、ですよね。」


「うん。由衣の友だち。」


 自己紹介はそれだけだったのに。

 空気は、ちゃんと繋がった。


 朝倉は、プリントした写真を机の上に広げる。

 噴水、傘、濡れた地面、フェンスに落ちる雨粒。


 全部、光がないのに光を感じる写真。


「……どうして、光が写ってないのに光に見えるの?」


 私が聞くと、朝倉は少しだけ息を吸った。


朝倉は写真を置いたまま、指先でその端を何度かなぞった。

なにか言葉を選ぶみたいな動きだった。


「光って、消える前が一番きれいなんだよ。

 消えそうな瞬間だけ、世界が“ここにいる”って強く主張するから。」


 胸が、じん、と熱くなった。


 ああ――この人も、何かを失ったことがある人なんだ。


 そう分かっただけで、呼吸がやさしくなった。


「じゃあ、由衣の絵も、そういう光にできる。」


「うん。できる。」


 詩織が小さく笑う。


「2人とも、ちゃんと同じ方を見てるんだね。」


     ◇


 詩織は立ち上がってバッグを肩にかけた。


「そろそろ帰る。

 泣きそうになったらスマホ投げるなよ。

 ほら、画面割るから。」


「投げないよ。」


「割ったら“六月の破片”ってキャプションに書きな。」


「……それ、普通に好きなんだけど。」


「知ってる。」


 ドアが閉まる。

 残ったのは、私と朝倉だけ。


 静かだった。

 だけど、苦しくない静けさ。


「由衣」


「なに」


「今日さ、由衣はちゃんと“前に進んだ”日だよ。」


「……うん。」


「ちゃんと、それ、作品にして。」


「する。」


「見せるの、怖い?」


「怖いよ。でも――」


 息を吸う。


横断歩道の前で立ち止まると、朝倉はポケットに触れた。

スマホを見ないまま、触れるだけ。


「……ごめん、ちょっと思い出しただけ。」


私は聞かない。

けど、ちゃんと受け取った。


「怖さより、見せたいが勝った。」


「……そっか。じゃあ、勝ったほうで行こう。」


 朝倉は、嬉しそうに笑った。


「勝ったほうで、行こう。」


     ◇


わたしは今日、暗い場所を塗り重ねて、そこに残った白を光と呼ぶことに決めた。


 キャプションを書いたとき、胸の奥で何かがやっと終わった。


 いや、始まったのかもしれない。


 わからないけど。


 でも、呼吸ができた。


 それだけは確かだ。


     ◇


 帰り道。

 水たまりを踏んだ靴が、小さく音を立てる。


 空はまだ泣きたがってるみたいな色だった。

 でも、それも悪くなかった。


 私は心の中で宣言した。


負けヒロイン、もう泣かない。

泣いたことを、光にする。


 次の日。

 朝の空気は、昨日よりも少しだけ軽かった。

 階段を上がる足取りで自分の体重がちゃんと前に移る感覚がある。

 人は、心が前に出ると、体も付いてくるんだなと知る。


 ホームルームの前、私は文化祭実行委員の貼り紙の前に立った。

 展示の場所割り。

 本館二階・特別教室――窓側は応募多数につき抽選。


 窓側。

 光。

 私たちの作品に必要なもの。


 「抽選」って書かれた言葉が、心の中で紙みたいな音を立てた。

 紙は破れる。でも、破れるなら、貼り直せばいい。


 放課後、実行委員の教室に行く。

 ドアの前で息を整えた。

 扉の向こうの空気は、すこし熱っぽかった。せわしない声と、紙の擦れる音。


「すみません。展示の場所について相談があって」


 実行委の男子(二年)が顔を上げた。

 眠そうな目。けど、ちゃんと聞く姿勢に切り替わる。


「はい、どうぞ」


「窓側、希望です。理由は……光を使う展示で、キャプションもそれに沿っています。暗い場所でもできなくはないけど、見せたいものが変わってしまう。すこしだけ、優先をお願いできませんか」


 言いながら、手のひらに汗がにじむ。

 こういう交渉は得意じゃない。

 でも、今は作品のために話している。

 そう思ったら、怖さより、言葉が出てきた。


 男子は腕を組んで考えたあと、紙をめくった。

 その横で、女子の委員が覗き込む。


「窓側、応募多いんだよね……でも、理由が明確なとこを優先ってルールはある。写真と絵の共作? キャプション、見せてもらえる?」


 私はノートを差し出した。

 女子が目で読み、ふっと笑う。


「いいね。言い切ってる。

 じゃあ――入口から数えて二番目の窓側、空けとく。

 ただし、安全管理の書式を今日中に出してね。釘・パネル・動線。

 “光”が必要でも、怪我させたら台無しだから」


「はい、今日中に」


 お辞儀をした。

 帰り際、男子が付け足す。


「君さ、声、震えてたけど、内容は強かった。

 こういうの、好きだよ」


 肩の力が抜けた。

 廊下に出ると、詩織からメッセージが来ていた。

 《窓側、取れた?》

 《取れた。二番目。今日中に安全書式》

 《よし。勝ち。放課後、美術室》

 《了解》


     ◇


 美術室。

 窓から斜めに入る光が、机の角で一度砕けて、白い粉のようになって床に落ちている。

 私は安全管理の書式に向かう。

 パネルの高さ、釘の本数、テープの種類、動線の矢印。

 文字の列は乾いているけれど、扱っているのは“他人の体”。

 見せるって、結局はこの現実の上に乗るんだ。


 詩織が来た。

 肩にかけたトートバッグがやけに重そうだ。


「なにそれ」


「透明のピン。影が最小限で済む。あと、両面テープは紙を傷めないやつ。ついでにA3のスリーブ。湿気対策」


「詩織、ありがと」


「お礼は展示で返して」


 詩織は私の手から書式を奪って、空欄を埋め始める。

 筆圧が強い。強いけど、字はきれいだ。


「朝倉は?」


「今、現像屋。プリント本番のカラーバランス見に行ってる」


「頼もしい。――で、由衣」


「ん」


「SNS、どうする?」


 私は一瞬、視線を泳がせた。

 “この作品はSNSで伸びる”って言われるのは、嬉しくもあり、怖くもある。

 知らない誰かに見られるのは、まだ怖い。

 でも、見られたい。

 この矛盾を抱えたまま、私は答えた。


「やる。

 公式のタグは付ける。

 でも“泣いた恋”みたいな言葉は使わない。

 “描いた六月”でいく」


 詩織が親指を立てた。「いい。逃げない言葉」


 書式が終わる頃、ドアが開いて、朝倉が入ってきた。

 印画紙の大判を丁寧に持っている。

 空気の密度が、少し変わる。

 写真の“原物”が持ってくる緊張。


「色、取れた。

 噴水は青が転びやすいから、半段だけ赤に寄せた。

 路面は緑に寄る癖が出たから、そこは中立まで戻してる」


「わかんないけど、わかる」


「わかんなくていいよ。

 由衣の線が乗ったら、それが正解になるから」


 私は笑った。

 嬉しさが、喉の奥で小さく跳ねた。


「キャプション、もう一段だけ攻めない?」


 朝倉が言った。

 私はノートを手に取る。

 詩織が腕を組む。


「今のでも“言い切り感”はあるけど、作品の呼吸を言葉にも入れたい」


「呼吸?」


「うん、例えば――」


 私はペン先を紙に触れさせ、考える。

 頭でなく、今日の体温で。


 そして、書いた。


わたしは今日、暗い場所を塗り重ねて、そこに残った白を光と呼ぶことに決めた。

泣いたことは消さない。乾く前に光った、その一瞬を渡す。


 詩織が「それ」と言った。

 朝倉が、少しだけ目を細めた。

 決まりだ。


     ◇


 準備を終えて、三人で廊下に出たとき――

 前から、雪村が歩いてきた。

 横に、あの子。

 手は繋いでいない。でも、歩幅が揃っていた。


 時間が、一瞬だけ伸びる。

 私は、その伸びた時間の中で、何も選ばないと決めた。

 立ち止まらない。

 目を逸らさない。

 でも、視線で触れない。


 雪村が気づいた。

 彼は、ほんの一瞬だけ微笑んだ。

 あの子も、私を見た。

 敵意はなかった。

 私も、敵意は持たない。


 すれ違う。

 水たまりの縁を踏んだような、短い冷たさが足首に触れる。

 でも、もう、芯まで来ない。

 布で受け止められるくらいの冷たさ。


「平気?」


 詩織が小声で聞く。

 私は頷いた。


「平気。

 ……いや、正確には、“平気じゃないけど、前に行く”」


「それで十分」


 朝倉は何も言わなかった。

 ただ、肩の高さを私に合わせて歩いた。

 歩幅が、半歩だけ短くなる。

 合わせてくれる人は、世界に必ずいる。

 それを覚えておくだけで、呼吸は楽になる。


     ◇


 夜。

 自室。

 机にスケッチブック。

 消しゴムの角は、もう丸い。


 “壊す”練習をした。

 4Bで塗り込んだ面を、練り消しでわざと乱暴に剝がす。

 紙の繊維が起きる。

 そこへHBで薄く重ねる。

 白は、空白じゃない。

 残された光だ。


 ふと、枕に顔を伏せた。

 あの夜、泣いた枕。

 塩の匂いは、もうしない。

 でも、形が残っている。

 枕のへこみ方。

 乾いたタオルの手触り。

 その具体が、線に変わる。


 スマホが震えた。

 朝倉からだった。

 《明日、三限終わりに光の具合見に行こう。午後は曇り→晴れ予報。二時台の光、噛む感じになる》

 噛む光。

 言葉の選び方が、やけに好きだなと思った。

 返事を打つ。《了解。二時、教室前集合》


 ベッドに仰向けになる。

 天井の白は、心の白と似ている。

 何も書かれていないから自由で、何でも書けるから怖い。

 でも、今日は怖さよりも、書きたいが勝っている。

 胸の奥で、水が静かに呼吸していた。


 翌日、二時。

 特別教室は、まだ静かだった。

 窓の外の雲がゆっくり流れて、光の模様が床の上を移動する。

 その模様を、目で追いかける。

 光って、動く。

 “動くもの”を“置いておく”のが、展示という行為。


「ここ。二番窓、斜めの光が差す」


 朝倉が、実測するみたいに床に手をかざした。

 光の硬さ、温度、方向。

 全部、手の甲で計測しているみたいだった。


「午後の二時二十に、柱の影がここに来る。

 そのとき、由衣の線の“白”が一番生きる」


「二時二十」


 口の中で繰り返す。

 数字はお守りになる。

 目印になる。

 揺れそうな時間で迷ったら、数字に掴まればいい。


「設営は、レイアウトに余白を」


 詩織がA3のスリーブから用紙を出す。

 透明のピンをケースごと開ける。

 道具の音が静かに重なる。

 手のひらに伝わる小さな痛みが、現実に触っていることの証明になる。


「ここ、怖いなら私が打つ」


「打てる」


 私はピンを摘み、壁に当てる。

 ひと呼吸。

 そのあと、親指の腹で押し込む。

 “コツッ”という骨の薄い音。

 留まる。

 留めた。

 この教室に、私の点がひとつ付いた。


 噴水のプリントを右上に。

 路面の反射を左下に。

 中央に、屋上のフェンス。

 そして、そこに重ねる私の線。

 鉛筆の濃淡が、写真の“消える前”を抱きしめる。

 消える前が一番きれい。

 朝倉の言葉が、ここでやっと身体になった。


「キャプション、ここ」


 詩織が台紙を持つ。

 私は両面テープを小さく切る。

 貼る。

 空気が入らないように、角からゆっくり。

 指でこすり、定着させる。

 文章が、壁に“居場所”を得る。


わたしは今日、暗い場所を塗り重ねて、そこに残った白を光と呼ぶことに決めた。

泣いたことは消さない。乾く前に光った、その一瞬を渡す。


 読み上げる。

 声が、ほんの少し震える。

 震えは恥じゃない。

 まだ濡れている証拠だ。

 濡れているから、光れる。


「よし。――写真、撮るよ」


 朝倉が数歩下がり、カメラを構える。

 “カシャッ”。

 シャッターの音が、胸の内側で反響した。

 呼吸と同じテンポで鳴る音は、安心する。


「もう一枚。今度は、由衣の手ごと」


「やめて」


「見せるんでしょ」


 私は、笑って手を差し出した。

 “カシャッ”。

 描く手が記録された。

 恥ずかしいのに、少し誇らしい。

 “ここにいる”という記録が、確かに残るから。


     ◇


 作業を終えて教室を出たとき、廊下に人が増えていた。

 文化祭は、人の気配が作品になる。

 遠くで笑い声。

 どこかでガムテープの剥がれる音。

 紙の匂い。

 湿った床。

 全部が混ざって、青春みたいな匂いがする。


「佐伯さーん!」


 実行委の女子が呼んだ。

 駆け寄ると、彼女は小声で言った。


「配置、さっき先生が見に来てね。

 “よく考えた展示”って言ってた。

 窓側にしてよかった」


 胸が、静かに跳ねた。

 誰かの“よかった”は、作品に水をやるみたいに効く。

 心の中の土がふわっとほぐれる。


「ありがとう」


「ありがとうはこちら。ちゃんと安全書式出してくれて。

 展示は、作品だけじゃないからね」


 彼女は手を振って走り去った。

 背中のポニーテールが、汗で少し重たそうに揺れていた。


「由衣」


 朝倉の声。

 振り向くと、彼は窓のほうを見ていた。

 雲が途切れて、二時二十が来た。


「見て」


 光が、壁の上のキャプションに噛みつくみたいに差し込んだ。

 文字の縁が白く立ち上がる。

 影の縁が、薄く震える。

 “乾く前に光る”という言葉が、物理になった。


 ――この瞬間を、渡したかったんだ。


 胸の中の水が、ゆっくり静まっていく。

 音を立てずに、底に座る。

 泣きそうには、ならない。

 今の私は、濡れたまま光ることを覚えたから。


     ◇


 夕方。

 家に帰ると、母が「おかえり」と言った。

 台所には茹でたとうもろこしの匂い。

 夏の入口の味。

 私は「ただいま」と答え、靴を揃えた。

 母は、私の顔を一瞬だけ見て、何も言わなかった。

 たぶん、何かに気づいたのだと思う。

 でも、言わない。

 言葉を足さない優しさも、ある。


 部屋に戻って、机に座る。

 ノートを開いて、空白のページに日付を書く。

 六月二十九日。

 そして、短く書く。


“平気じゃないけど、前に行く”と、今日の私が言った。


 電車の通る音が遠くから届いた。

 まぶたが少し重くなる。

 スマホが震えた。

 詩織からの写真。

 《窓側、二時二十。光、噛んでた。》

 私は笑って、返事を打つ。《噛まれた》

 《それは比喩としてどうなの》

 《最高》

 《最高》


 やり取りが終わると、すぐまた通知。

 朝倉だ。

 《明日、実委のチェック。念のため、ピンの数もう一度確認しよう》

 《OK。緊張する》

 《大丈夫。由衣の作品は“呼吸してる”。呼吸してる展示は、倒れない》

 画面の白が、優しい。


 私はスマホを伏せて、ふっと息を吐いた。

 胸が空いた。

 穴じゃない。空だ。

 そこに、光が入る。


     ◇


 文化祭当日――の前日。

 午前中の最終確認。

 教室に入ると、作品の前に一人、立ち止まっている女子がいた。

 クラスメイトの、佐々木。

 絵が上手い子。けっこう辛口。


「……佐伯」


「うん」


「これ、泣くやつだわ」


 唐突だった。

 でも、つい笑ってしまった。


「泣かない物語にしたいんだけど」


「違うの。泣かないために泣くやつ。

 なんか、息できるようになるタイプのやつ」


 言葉が胸に刺さったあと、あっため直される感じがした。


「ありがとう」


「ううん。展示、窓側で正解。

 あと、キャプションの字、震えてるの良い。

 作り物じゃないって分かるから」


 佐々木はそう言って、さっさと去った。

 背中が、ちょっとだけ軽く見えた。

 作品は、誰かの背中の重さを少しだけ減らせるのかもしれない。

 それなら、見せる価値はある。


     ◇


 午後。

 実行委と先生のチェック。

 大谷先生が、腕を組んで見上げた。

 眼鏡に、窓の白が小さく映る。


「よく考えてある。

 光を計算に入れて、しかも、安全が破綻してない。

 キャプションも、自分の身体に近い。

 ……うん、通す」


 先生は短く言い、ハンコを押した。

 紙に残る朱色の丸が、急に愛おしく見えた。

 朱肉の匂い。

 許可の匂い。


 実行委の男子が親指を立てる。

 女子が「初日、混むよ。在廊できたら少しして」と言う。

 私は首を縦に振った。

 混むのは怖い。でも、見たい。

 見られる側の自分と、見る側の自分を同時に連れていく。


     ◇


 その日の放課後。

 屋上に出た。

 風が強い。

 雲が薄くちぎれて、青がところどころ濃い。

 フェンスの影が細く長く、床を横切る。


「ここで始まったんだよな」


 朝倉が言った。

 私は頷いた。


「うん。怖いけど、見せたい、って言った場所」


「由衣」


「なに」


「ありがとう」


 不意打ちだった。

 でも、わかる気がした。


「こっちこそ、ありがとう」


 言葉が少しだけ重なって、笑いが同時に出た。

 笑いは、合図だ。

 大丈夫の合図。

 風が、その合図を遠くに運んでいく。


 私はフェンスの網目に指をかけた。

 網の向こうに街がある。

 道。車。信号。人。

 全部が、“消える前”を繰り返してそこにいる。

 私も同じ。

 いつか消えるけど、今はここ。

 だから、見せる。

 だから、渡す。


 負けヒロイン、もう泣かない。

 泣かない代わりに、光を渡す。


 胸の中で、水が静かに輝いた。

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