第2話 光を写すひと
六月の風は、少し湿っていた。廊下に溜まった学校の匂い――床ワックスと印刷したてのプリント、チョークの粉のかすかな粉っぽさ――が、熱を含んでゆっくり流れていく。ホームルームが終わるチャイムが鳴り、あちこちで椅子の脚が床を引っかく音が重なった。
窓際に座っている私の机の上にも、白い光が薄く乗っている。雲は多いのに、切れ間がいくつもあって、陽射しは気まぐれに教室を撫でていった。光が過ぎ去るたび、机の木目の筋が、波紋みたいに見えたり消えたりする。
雪村くんの背中は、三つ前の列で相変わらずきれいに立っている。前の席の男子と笑い合う声が、風に押されてこちらに届いた。昨日まで――あの「ごめん」をもらった日まで――この背中を見るだけで胸のどこかがきゅっと縮んでいたのに、今日は、その縮み方が少し違った。鋭く突き刺さる針のような痛さではなく、絆創膏を剝がすみたいな、鈍い、でも確かな痛み。沁みるけれど、呼吸はできる。
失恋は、長引く風邪に似ているのかもしれない。熱が下がっても咳が残り、何日かごとにぶり返す。治ったふりをしたい朝ほど、喉の奥がいがいがする。それでも、朝は来る。朝はいつだって、こちらの事情を待ってはくれない。
教室の時計が、五分進んだ針をこれ見よがしに動かす。窓の外では、サッカー部が走る掛け声を重ねていた。「いち、に、さん、し!」の声が、薄い雲の膜に吸われていく。私は筆箱を閉じ、椅子の背もたれに鞄を掛け、深呼吸をひとつした。
◇
放課後の屋上は、予想どおり――いや、確信していたとおり――風が通っていた。鉄の扉を押し開けると、空の色がいっきに広がって、フェンスの目が白く光を返す。コンクリートは昼間の熱をまだ少し持っていて、靴の底にぬるい感触が移った。
カメラのシャッター音が、風に混じって聞こえた。「カシャッ」と小さく、でもまっすぐに耳へ飛び込んでくる音。振り向くと、フェンスの影と一緒に、彼がいた。朝倉。昨日、私の影を「きれいだ」と言った人。
「また会ったね」
「うん。来る気がした」
言いながら、自分でも驚いた。こういうときの勘って、たいてい当たらないのに、今日は当たった。朝倉は、ファインダーを覗いたまま微笑を浮かべた。風に前髪が一筋だけ逆らい、額の上で小さく跳ねる。
「今日の空、淡いよね」
「うん。雲が多いのに、青が負けてない」
「写真だとさ、こういうの、難しいんだよ。色が逃げる」
「逃げる?」
「うん。目で見えてる“柔らかさ”が、画面に来ない。だから、探す。光の居場所」
彼がシャッターを切る。雲の薄い層が風に引き伸ばされ、校舎の壁に細長い影が生まれる。影は風にゆれて形を変え、フェンスの格子の上で新しい模様になった。私はその模様に足先を重ねて、ほんの少しだけ位置をずらした。自分の影とフェンスの影が、いま重なる。昨日と同じ感覚――でも昨日よりも、少しだけ自分の輪郭がはっきりしている気がした。
「透けるね、光」
「うん。人も、ときどき透けるよ」
朝倉の言葉は、詩みたいに軽く、でも芯が通っていた。相手の心に入り込む角度を知っている言い方。私は何も言わず、ただフェンスの向こうの街を見た。信号がゆっくりと色を変え、遠い交差点で自転車が止まる。世界は続いている。続いているのだと、風がからだの右側を抜けるたびに思う。
「ねえ、今度の日曜、時間ある?」
「あると思う」
「公園、行かない? 噴水の近く、光がいい」
「……行く」
返事は、自然に出た。返事の後ろで、心の奥が「カチ」と鳴った。鍵が少し回る音。昨日の私が置き去りにした錠前が、ようやく動き出したみたいだった。
◇
日曜の朝。まだ朝顔がしっかりと口を開き切る前の時間、市立公園の噴水は、半分寝起きみたいな水しぶきを上げていた。曇り予報は外れて、雲の間から光がこぼれる。大きな木の葉が湿り気を帯びて、葉脈に沿って小さな水滴が不規則に走る。ベンチの背もたれの鉄は少し冷たく、木の板は昨日の雨を薄く覚えていた。
朝倉は、噴水の縁に腰を掛けて、カメラのストラップを指先でくるくる回していた。私を見つけると、指先が止まり、笑顔がゆっくりとほどけた。
「おはよう」
「おはよう。早いね」
「写真撮る日は、早起きできるんだ」
「遠足の日だけは起きられる理論」
「そうそう。何歳になっても、あれは有効らしい」
渡されたミラーレスは、手のひらにすっと馴染んだ。金属の温度が皮膚の温度に近づき、ストラップの革が柔らかく手首に触れる。レンズの表面には薄い曇りが残っていて、息をそっと吹きかけると、曇りが逃げた。レンズの中のガラスが、丸い宇宙みたいに光を抱き込む。
「撮るときはね、どう撮りたいか先に決めると、外れない」
「どう撮りたいか……」
「“何を見せたいか”に近い。人の顔でも、噴水でも、風でも」
私はファインダーを覗いた。四角い窓の中に、見慣れた公園が収まる。いつものベンチが、いつもの鳩が、いつもの子どもの笑い声が、少しだけ違う密度でそこにいる。枠に入れられると、世界は急に「選ばれたもの」になるのだとわかった。
小さな男の子が、噴水の縁に足を掛け、すべって、尻もちをついた。一拍の沈黙。その後、顔を上げて、泣く前に笑った。私は反射でシャッターを切った。シャッターが指先のカーブにきれいに落ちてくる。押し切る瞬間までのわずかな抵抗が、好きだと思った。
「いい」
「偶然」
「偶然を捕まえられる目、ってことだよ」
液晶に表示された写真には、子どもの膝についた水のしぶきと、笑いに引っ張られて目尻にしわを作る顔、後ろでハンカチを差し出す母親の腕だけが写っていた。画面の端にだけ噴水の白、中央は笑いの熱で満たされている。
鳩が二羽、足元を通り過ぎる。近すぎてレンズでは追えない距離。私はファインダーを外した。裸眼の世界は、ファインダーより広く、でも少しだけ騒がしかった。小さな子どもの靴のベルクロが剝がれる音、ベビーカーの車輪が砂利を押す音、遠くで誰かの自転車のブレーキが鳴く甲高い音。世界は音でできている。写真は音を持たない。だからこそ、光と影で音の気配まで写すのだと、ほんの少し理解した。
昼前、私たちは公園から数分のカフェに移動した。ガラス戸を押すと、焙煎した豆の香りが胸の底をすっと通っていく。窓側の席には白いレースのカーテンがゆらぎ、テーブルの上に柔らかな影が落ちる。氷水のグラスが運ばれてきて、コースターの上に丸い水の輪を作った。
「光って、そのものは写らないよね」
「え?」
「見えるのは、光に触れているものだけ。だから、影を意識する」
朝倉はテーブルに置いた手を少し動かして、窓から差し込む光でできる自分の影の形を見せた。指の付け根、第二関節、爪の白さ――それらが影になったときにだけ見える線がある。
「影があるから、光が見える。きれいごとに聞こえるけど、写真やってると、ほんとにそうなんだよ」
「……わかる気がする」
私はハーブティーの表面に浮いた光の粒を見つめた。カップの縁に沿って、光が小さくちぎれている。ゆらぎの周期が、さっきの噴水とは違って、もっとゆっくり、穏やかだった。
「由衣、絵、描くよね」
「え? どうして」
「筆箱、見た。HBと2Bの鉛筆が別で入ってた。スケッチの人の持ち方」
「……よく見てる」
「カメラマンだから」
からかうでもなく、ただ観察の結果を告げるみたいな口調。私は苦笑して、ハーブティーをひと口飲んだ。口の中にミントの涼しさが広がる。
「もしよかったらさ、俺の写真に、君の線を重ねてみてよ」
「線?」
「光は俺。影は君。――“共作”」
その言葉が、胸の真ん中にふっと落ちた。音はしなかったけれど、落ちたとわかる感触があった。落ちたものはすぐに沈まず、水面にしばらく漂って、やがて静かに沈む小石みたいに、私の中で居場所を探した。
「やってみる」
「うれしい」
朝倉の笑顔は、眩しいというより、柔らかい発光だった。見ていると、目の奥がじんわり温かくなる。恋の光ではない。もっと違う種類の光。風に当たった背中が温まる日向みたいな光。
カフェを出る頃、雲が急に厚くなった。空の灰色は細かな粒子の集まりで、輪郭がどこにもない。風がひとつの方向から来なくなり、四方から押し合うみたいに変わった。噴水の水音が重くなる。
「降るね」
「たぶん」
言っている間に、ぽつ、ぽつ、と大粒の雨が落ちてきた。ベンチの背もたれに濃い斑点が生まれ、アスファルトに灰色の小さな花がいくつも咲く。私の制服の肩にも冷たい点がひとつ。
「走る?」
「ううん」
朝倉は鞄から折りたたみ傘を取り出した。黒でも透明でもない、深い緑の傘。骨組みがしっかりしている。ふたりで傘に入ると、世界が一段階、静かになった。傘に当たる雨音が、規則を持たないのに、なぜか整って聞こえる。
肩が触れないように少しだけ距離をとった。けれど、傘の内側に閉じ込められた空間は、ふたり分の呼吸でゆっくり温まり、互いの手の甲の温度まで伝わってくるような錯覚があった。足元の水たまりに傘の縁から落ちる滴が輪をつくり、輪が輪を追い越して崩れるたび、雨は少しずつ強くなった。
「……こういう雨、好き」
「どうして」
「世界の音が、いったん同じ種類になるから」
朝倉は笑って、傘の持ち手をほんの少しだけこちらに傾けた。濡れないように、ではなく、光が私の頬に届く角度を選ぶみたいに。こんなふうに扱われた記憶は、思い出せない。私は傘の内側の暗がりを見上げた。薄い布の向こうで、雨粒が光の粒になって走る。
交差点の角にある小さな古本屋の軒先に入ると、雨はさらに大きな音を立てた。私たちは傘を畳んで、それぞれの濡れた袖を軽くつまみ、雫を落とす。軒先から垂れる水の筋を見ながら、私はふいに、自分の心の中の水位が下がっていくのを感じた。失恋の水位。胸のところまで来ていたものが、へその少し上くらいにまで下がる。立っていられる。
「メールする。今日のデータ」
「うん。……私も、線を描いて送る」
「楽しみ」
雨は、十分後には、やんだ。公園へ戻る途中、葉っぱの上の水滴が次々にはじけ、道の上に小さな銀の破片みたいに散った。雨上がりの匂いは、遠い昔の体育の授業を思い出させる。グラウンドの砂の、ぬれた鉄棒の、日陰の土の匂い。
◇
その夜、机の上にスケッチブックをひらいた。指先にまだ、折りたたみ傘の布の手触りが残っている。スマホに届いた写真データをプリントアウトする。プリンタの小さなモーター音が眠たそうに唸り、紙がじわりと色を飲み込んでいく。
噴水の写真を前に置き、鉛筆を二本――HBと2B――机の右に並べる。HBで当たりをつけ、2Bで影を深める。朝倉の光の中に、私の線を落としていく。子どもの笑顔の輪郭をふくらませ、噴水の白い泡に、柔らかな鉛色を足す。写真の中でしか見えない光と、紙の上でしか見えない影が、ゆっくりと重なっていく。
線が紙を滑るたびに、胸の中の空気が入れ替わる。昨日まで重たかった空気が、ドアを開けられた部屋みたいに新しくなる。はじめの数本は震えた線が、十本目、二十本目になる頃には、体の中で鳴っているリズムに合うようになった。
スケッチブックの端に、私の名前を書いた。「由衣」。久しぶりに書いた自分の名前は、少しだけ別人のものみたいに見えた。けれど、じっと見ていると、ちゃんと“私の字”だ。とめやはねが、誰のものでもない私のクセでできている。
スマホが震えた。《送ったよ》朝倉。写真が添付されている。開くと、雨の前、公園の木陰で笑っている私が、ほんの小さく写っていた。目尻が緩んで、髪にチラついた光の粒が乗っている。自分の笑顔をこんなふうに見たのは、いつ以来だろう。私は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
《ありがとう。今、描いてる》
《やっぱり。そうだと思った》
《どうして》
《由衣の“目”が描く目になってたから。今日》
心が、少しだけ早く脈を打った。寝る前に、仕上がった一枚を写真に撮って送ると、《きれいだ》のひと言が返ってきた。長い賛辞より、短い本気。私はスマホを伏せ、灯りを消した。
◇
その夜は、眠りが浅かった。夢の手前で目が覚める、あの半端な場所を何度も往復した。三度目に起きたとき、カーテンの隙間から街灯の光が差し、部屋の隅に長方形の薄い明かりを落としていた。うっかりタップしてしまったSNSのアイコンが、親指の下で開く。タイムラインに、夏の色が溢れている。屋上で撮った逆光のシルエット、アイスの青、プールの波、浴衣の帯。世界中に夏は大量にあり、どの夏も、きらきらしている。
スクロールしなくてもいいのに、親指は動く。雪村くんの名前が視界に飛び込んだ。《部活、花火!》。写真の中央で、彼は笑っていて、その左に、肩が触れる距離で並んでいる女の子がいる。火花の白が顔の前で枝分かれし、粒が空中でほどけては消える。二人の笑顔のあいだには、恋の温度があり、それは画面越しにも伝わる種類のものだった。
目の奥がじんわりと熱くなる。泣く、と思った。けれど、涙は落ちなかった。代わりに、息が少しだけ長くなった。胸の深いところで、やっと空気が膨らむ。私はスマホを伏せ、両手を顔の上に置いて、天井を見た。白い天井は、昼も夜も、いつも同じ白をしている。
――影があるから、光が見える。
朝倉が言った言葉が、再生された。勝手に。私の意志とは関係なく。でも、今の私には必要な言葉だった。私は目を閉じ、花火の写真の残像を自分の線に置き換えた。燃え散る白い線の外側に、黒を置く。線と線の間に、わずかな余白を残す。そこに風が通る。風の音で、火花の音を思い出す。そうやって、痛みの形をすこし変えた。
深呼吸をひとつ。時計は二時を回っていた。眠りは、そのあと静かに来た。
◇
週明け。朝の廊下は、汗と柔軟剤と、ほんの少しの制汗スプレーの匂いが混ざっている。プリントの端で指を切りそうになりながら教室に入り、席に座る。数学の小テストが返された。紙の隅に、赤いペンで書かれた点数。ギリギリ及第。私は思わずふっと笑ってしまった。
「由衣、笑ってる場合?」
「うん。負けヒロイン、学業にまで負けてたら、物語が救われないし」
「なんだその新理論」
詩織は肩で笑って、私の答案用紙を覗き込み、眉をしかめた。「ここ、間違える?」と鉛筆で丸をつける。私は「あー」とか「うー」とか、言葉にならない音を返す。そういう音でも、今日はちゃんと笑いに変わる。
昼休み、私たちは階段を下り、昇降口の手前にある掲示板の前で足を止めた。色褪せた文化祭の写真の隙間に、新しいポスターが貼ってある。《文化祭展示募集――テーマ:光》。赤いマーカーで「光」の文字だけが二重線になっていた。その赤は、チョークの白と同じくらい、私の目にまっすぐ飛び込んできた。
「ねえ、詩織」
「ん?」
「出そうかな、これ」
「展示? 写真?」
「うん。朝倉って子と一緒に、“光と影”」
「朝倉……屋上で会う子?」
「そう」
詩織は一瞬だけ目を細めて私の顔を見、それからにっと笑った。「いいじゃん。負けヒロイン、舞台に立つ」「タイトル、そうじゃないけどね」「いいの。人生はキャッチコピーが九割」「誰情報」「私」「信用ならない」
私たちの笑い声が、昇降口の白い床に弾んで消えた。誰かが掃除で濡らしたのか、床の片隅に残った水は、きれいに四角く乾きかけている。私はポスターの端を指でそっと押した。紙の下の画鋲が、ちゃんと効いているのを確かめるみたいに。
「ほんとにやるの?」
「やる」
「じゃあ、帰りに画材屋寄ろ」
「……ありがとう」
「礼は展示で返せ。泣けるやつを持ってこい」
「泣かない物語にしたい」
「じゃあ、泣かせてから笑わせろ」
詩織の言葉はいつも乱暴に見えて、骨が綺麗に通っている。私はうなずいた。
◇
放課後、屋上に上がると、風は昨日より弱く、光は昨日より乾いていた。鉄扉の蝶番が小さく鳴る。フェンスの向こう、遠くのマンションのベランダに洗濯物が揺れる。白いシャツの両袖が、空に手を振るみたいにぶらぶらと動いた。
「掲示、見た?」
「見た」
「出す?」
「出す」
朝倉は、言い切った私を、ほんの少しだけ驚いた顔で見て、すぐに笑った。「じゃあ、やろう」「うん」
彼がカメラの設定を確認する。ダイヤルが指の腹に滑らかな抵抗を返す。私はスケッチブックを取り出し、風で捲れないように端をクリップでとめた。ふたりで、同じ風の中に立つ。違う道具を持ち、同じ方向を見る。そういう瞬間が、こんなにも救いになることを、私は初めて知った。
「光ってさ」
「うん」
「まっすぐじゃないよね」
「どういう意味」
「人の中に入って、跳ね返って、違う色になる。誰かと一緒にいるときの光って、ひとりのときの光と違う」
朝倉は頷いた。「だから、二人でやるの、いいと思う。俺の光は、俺だけのものだけど、君の影が重なると、別のものになる」
「……怖いね、少し」
「見せるのが?」
「うん。自分の影、下手だと嫌だし」
「下手かどうかは、俺が決めることじゃない。君が決めることでも、ないと思う」
「じゃあ、誰が」
「見る人」
私はしばらく黙って、フェンスの目の中に空を入れたり、校庭の砂を入れたりした。スケッチブックの上で、HBの細い線が鳴る。風がページの端をめくろうとして、クリップがそれを制す。
「……じゃあ、見せる」
言った瞬間、怖さは半分になった。声にすると、怖さは形を得て、影になる。影になったものは、描ける。描けるものは、怖くない。
◇
夜。机の上には、昼間の光が置き去りにしたみたいな薄い白がまだ残っていた。スケッチブックの隣に、古い消しゴム。角が丸くなって、もう四角の要素がほとんどない。鉛筆を削ろうとして、キャップの中の小さな削りカスを指でつつく。木の匂い。鉛の匂い。勉強よりも絵を描いていた頃の匂い。
文化祭の応募要項をプリントアウトして机の左に置く。《サイズA3以内》《展示方法は相談》《キャプション(100〜200文字)必須》。キャプション――言葉。私は鉛筆を置き、紙の端に、試しに書いてみる。
――光は、影のかたちで見える。
短い。けれど、嘘ではない。朝倉の言葉に寄りかかっているのはわかっている。ちゃんと自分の言葉にしなきゃいけない。私は考え、消し、また書いた。言葉は線より難しい。線は体で引けるけど、言葉は頭を通らないといけないから。
ふと、鏡に目が行く。昨日より、目の下の赤みは薄い。肌の色が、元の色に戻っている。髪を耳にかける。耳たぶの小さなほくろを確認する。そこにずっとあった、私だけの目印。
「――もう、泣かない」
声に出して言った。部屋の空気が少し震えた。昨日よりも、ずっと静かな響き。宣言というより、確認。誰に聞かせるでもないけれど、口に出したことで現実になる種類の言葉。
窓の外で、遠くの踏切が鳴る。二回、三回、四回。電車が夜を横切る音が、遅れて届く。私はスケッチブックに戻り、昼間の噴水の泡に線を足した。影を深める。影が深くなるほど、光は浮き上がる。光を描きたいなら、影を描くしかない。そうやってできた画面の上で、昼の笑い声がかすかに蘇る。
スマホが震えた。《キャプション難しい問題》朝倉。《いま、書いてる》《見せて。俺も考える》《うん》
スクリーンに映る文字の白が、部屋の暗さの中で小さく光る。私は画面を消し、窓を少しだけ開けた。夜風が入ってきて、スケッチブックの端を撫でる。紙が軽く鳴る。
恋は、終わった。終わったものには、終わっただけの重さがある。その重さを私の中でどう置くかは、私が決めていい。私は今、その重さを紙の上に移し替えている。光の場所を探すみたいに、影の置き場所を探している。
明日、私は学校へ行く。屋上に上がる。写真を、線を、言葉を持っていく。負けヒロインというラベルの上から、透明のラベルを一枚重ねるために。透明のラベルには、こう書くつもりだ。
由衣。光を写すひと。
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