負けヒロイン、もう泣かない。―恋の終わりから始まる私の物語―

桃神かぐら

第1話 夕焼けの教室で

 呼び出したのは私のほうだった。

 放課後、ホームルームが終わって、クラスのざわめきが少しずつ廊下に流れ出していく。最後まで黒板を消してくれていた彼が、黒板消しをトントンと窓枠に打ちつける音だけが教室に残る。

 ガラス越しに、低く溶けたオレンジ色の空。まだ熱を抱えた夏の名残の匂い。教室の床は一日の塵を吸って、わずかにざらついていた。


「……あのさ、話、いい?」

 喉の奥でからんだ空気を、どうにか言葉にした。

 彼――雪村(ゆきむら)くんは、いつもの穏やかな目でこっちを振り向いた。

「うん。何?」

 軽い。彼はいつだって、私の緊張を軽く受け止める。いい意味でも、悪い意味でも。


 これを言うために、夜を何度も使った。鏡の前で、靴箱の前で、英単語帳のすき間にまで言葉を挟みこんで。消しゴムみたいに角が丸くなってしまった「好き」の言い方を、少しでも新しい角度から伝えたくて。


「私、雪村くんのことが――」

 教室の時計が、午後四時三十二分を指していた。秒針は、冷たくただ進む。

「ずっと、好きでした」


 言った瞬間、世界は何も変わらなかった。

 風はカーテンを少しだけ揺らして、誰かの忘れ物のシャープペンシルが机から転がり落ちる。窓の外のハトは、窓枠に首をすり寄せて眠そうに目を閉じている。

 彼は、目を伏せ、そしてゆっくりと息を吐いた。

 それは、告白した人間が一番聞きたくない“前置き”の仕草だと、頭のどこかが冷静に知っていた。


「……ごめん」

 優しい声だった。いつもみたいに、傷つけないように包んで渡してくる声。

「俺、今、好きな人がいるんだ」


 心臓が、机の角にぶつかったみたいに鈍く痛む。

 彼は続けた。「君のこと、すごくいい子だと思うし、一緒にいて楽しいって思ったこと、何度もあった。でも、そういうのとはちょっと違うというか……」

 言葉を選んでいるのがわかった。慎重に、相手の心に刺さらないように研ぎ澄まされたナイフの背で撫でるみたいに――それでも、切れ味は消えない。


「そっか」

 言えた。自分でも驚くほど、声が揺れなかった。

「ごめんね」

「ううん、言ってくれてありがとう」

 誰がなにを誰に言ってるんだろう。頭の片隅が、ひどく冷めた目で自分を見ていた。


 沈黙が落ちた。

 黒板の縁に白い粉が線になって積もっている。

 どこかで先生が笑っている声。校庭の隅でサッカーボールを蹴る乾いた音。

 私は、笑うというより、笑いの形を顔に貼り付けた。

「じゃあ、帰るね」

「うん。また明日」


 また明日。

 その言葉は、明日が来ることを前提にしている。あたりまえのことが、いきなり難問になった気がした。私は足を動かし、鞄を肩にかけた。足の裏に床のざらつきが触れる。それだけで、急に、世界の重みが戻ってくる。


 廊下に出ると、夕焼けがじんじんと目を刺した。

 誰とも目を合わせず、私は靴箱へ向かう。ローファーに履き替える手が、少し震えた。落としたコインみたいに心がころころ転がって、つかまえられない。


     ◇


 家に着いた。

 玄関のドアを閉める音が、今日だけ少し大きく響いた気がした。

 母からの置き手紙。「冷蔵庫にカレー。温めて食べてね。」

 電子レンジの前に立ったまま、ラップの皺を眺める。ラップの向こうで固まっているカレーは、今の私みたいに動かない。温め始めれば、きっと食べられる。けど、今日はその「始める」のボタンが、遠い。


 部屋に入って、ベッドに倒れ込む。

 スマホが、ポケットからするりと抜け落ち、枕の横に滑り込んだ。

 通知の数字が、いくつも赤い丸になっている。グループLINEの笑い声。SNSの流れていく“きれいな言葉”。

 スクロールする指は勝手に動くのに、目は何も拾えない。

 “推しの失恋曲まとめ”というタグが流れてくる。知らなくてもいい歌詞が、今日に限ってやたらと刺さる。


 画面の明かりが、天井に四角い光を投げた。

 曲のリンクの下に、こんな言葉があった。

 ――恋が終わっても、あなたの人生は続く。

 そんなの知ってる。でも、今は続いてほしくない。

 好きだったのに。私なりに、ゆっくり育ててきた気持ちだったのに。

 “負けヒロイン”という言葉が頭をよぎる。漫画やアニメの世界で、いつも見てきた役割。明るい子が泣く。優しい子が譲る。私は今日、その枠にぴったりはまることになったのだ。


 涙は、案外静かに落ちる。

 ドラマみたいに嗚咽したりしない。ただ、視界がにじんで、鼻が少し痛くなるだけ。

 私は声を出さないで泣くのがうまい。それは、誰にも心配をかけないための、ちいさなスキルだったのかもしれない。


 机の上。写真立ての中に、去年の文化祭の写真。クラスTシャツを着た、みんなの笑顔。私と、雪村くんも写っている。

 彼の笑顔は、太陽の端っこみたいだ。遠くから少しだけこの世界を明るくする。

 その光を、私は勝手に自分のものだと思おうとしていたのかもしれない。


 しばらく泣いて、涙が乾いたら、喉が渇いた。

 台所に行く。冷蔵庫から麦茶を出す。コップに注ぐ音が、遠い夏の夕方みたいに懐かしい。

 口に含むと、からからの砂漠に雨が落ちるみたいに、体の中で音がした。


 戻る途中、鏡の前で立ち止まる。

 泣きはらした目。赤くなった鼻の頭。

 それでも、鏡の中の私は、確かに私だ。

 見慣れた前髪。左目の下の小さなほくろ。体育の授業で焼けた頬の色。


「……大丈夫」

 誰に向けたかわからない言葉が、口からこぼれた。

 カレーをあたためる。湯気が立つ。スプーンを沈める。

 一口。味は、いつもどおりだった。

 “いつもどおり”が、まだここにある。その事実だけが、心の底でなんとか焼け石を冷ましてくれる。


     ◇


 夜、ベッドに入っても、眠りはしばらく来なかった。

 スマホを枕元に置く。通知を切る。

 目を閉じると、夕焼けの教室が焼き付いている。彼の声。黒板消しの白い粉。

 好きな人が誰かを好きだということ。それは、私がどうにかできることではない。

 わかってる。頭では。

 でも、心はいつだって遅刻魔だ。授業が始まっても、まだ廊下を走っている。


 浅い眠りと浅い目覚めを繰り返して、朝が来た。

 カーテンの隙間から差す光は、昨日の夕焼けと違って、容赦なく真っ白で、現実の色をしていた。


     ◇


 通学路。

 同じ時刻に、同じ場所で、同じ人たちが横断歩道を渡って、同じコンビニに入る。

 いつもと同じなのに、少し違うのは、私の足音のなかに、ゆっくりとした間があるからだ。足が勝手に、昨日の「ごめん」の重さを思い出す。


 信号待ちの間、イヤホンを耳に差して、ラジオをつける。パーソナリティの明るい声が、眠気をかき混ぜる。「新生活、うまくいかないときは、まず朝ごはんから!」

 新生活じゃないけど。うまくいかないのは、まあ、そう。


 校門をくぐると、駐輪場の向こうで、カメラを構えている人がいた。

 校内新聞の子? いや、見たことない。もっと、使い込んだ感じのミラーレス。ストラップの革が柔らかくなっている。

 カメラの先で、朝の光が運動場の砂をキラキラさせている。

 彼――いや、誰だろう――は、シャッターを切ったあと、ふっと息を笑いに変えた。

 その笑い方が、私の知っている誰かに似ていたわけではない。ただ、写真を撮ることそのものが嬉しい、みたいな顔をしていたから、少しだけ、見てしまった。


 視線に気づいたのか、彼がこちらを向いた。

 目が合った。

 やわらかい笑顔。少し寝癖のついた前髪。制服の襟が、片方だけうっすら曲がっている。

「おはよう」

 知らないはずなのに、挨拶は、自然に口から出た。

「おはよう」

 彼も、同じように言った。

 それだけで、ほんの少しだけ、心の中に風が通った。


「写真部の人?」

「うーん、非公式。趣味だよ。新聞部にたまに貸すけど」

「へえ」

「朝の光、きれいでさ。砂の粒が全部、別々の色してるの。見える?」

「……言われると、そう見える気がする」

 言いながら、私は砂を見た。

 見慣れた校庭。何度も走った場所。

 でも、今、目の前の砂が、確かに少しずつ違う色で光っているような気がした。

 さっきまでと同じ世界なのに、角度が変わるだけで、別の景色になる。カメラって、そういう魔法なのかもしれない。


「一年のとき、隣のクラスだったよね?」

 彼が言った。

「え? そうだっけ」

「そう。席替えのときに、廊下でプリント配ってくれた」

「あ……覚えてる。ありがとうって言ってくれた人」

「それは多分、君がちゃんと受け取ってくれたから」

 会話のテンポは、ぎこちなくも、妙に居心地が悪くない。

 彼の名前を、私はまだ知らない。

 でも、朝の光と砂の話を共有した人、というラベルが、先に心に貼られた。


 チャイムが鳴って、私たちはそれぞれの棟に分かれた。

 彼は最後に、「またね」と言った。

 “またね”は、今日の私にとってやさしい言葉だ。昨日の“また明日”よりも、やわらかい。約束でも義務でもなく、ただの希望の形をしているから。


     ◇


 一限目の現代文。

 先生の声は、やたらと小説を読む人の声だった。言葉の抑揚に余白があって、眠らせるのが上手い。

 ノートを開く。ペンを置く。

 黒板に書かれたのは、“喪失と再生”という単元名。

 笑いそうになる。タイミング、良すぎ。

 先生は言った。「人は何かを失うことで、何かを獲得することがあります。それは代償ではなく、変化です」

 私はペン先で“変化”の字の払いを長くした。

 変化。嫌いじゃない。怖いけど。

 教科書の本文は、失くしたものに名前をつけることで、もう一度、それを自分の時間に迎え入れる、という話だった。


 休み時間、詩織(しおり)が私の席にやってきた。

 小学校からの友だち。目が合う前から、彼女はもう事情を察している顔をしていた。

「昨日」

 彼女は椅子をぎゅっと引き寄せた。

「……ダメだった」

 私は笑顔のふりをしなかった。しなくていい相手の前で、そんなことをするのは、逆に失礼だ。

「そっか」

 彼女は、間髪入れず私の手を握った。冷たい手だった。私の手も冷たかった。二つの冷たさが重なって、なぜか少し温かかった。

「泣いた?」

「泣いた」

「えらい」

「えらい?」

「泣けるときに泣くの、えらいよ。詰まらせると、あとで変なとこでこぼれるから」

 彼女の言葉はいつも、少しだけオブラートをまとっている。でも、芯は硬い。

「ありがとう」

「今日、帰りにコンビニのプリン買って帰ろ。あと、あんたが好きな、あの薄いクッキー。サクサクの」

「わかってるね」

「十年来の付き合いなめんな」


 二限目のチャイムが鳴る。

 しばらく立ち上がらないでいると、詩織が顔を寄せた。

「ねえ。負けヒロインってさ」

 彼女は声を落とす。

「物語の中で、すごく大事な役回りなんだよ」

「へえ?」

「主人公に“勝たせるため”とかじゃなくて、負けることで自分の物語を始める人。最初に負けても、最後に勝つの」

「最後に勝つって、何に?」

「自分に」

 彼女はウインクして、席に戻った。

 最後に勝つ。

 昨日の私が聞いたら、鼻で笑ってたかもしれない。でも、今朝の砂の光を知っている私には、ほんの少しだけ、信じられる。


     ◇


 昼休み、屋上に上がった。

 風がスカートを揺らす。フェンスの向こう、街はいつも通りだ。ガードレールの白、マンションの影、屋上のタンク。

 ローファーの先で、コンクリートの灰色をこすった。

 ふと、ドアの音。振り返ると、朝のカメラの彼がいた。

「あ、また」

「また」

 彼は、私から二メートルくらい離れた場所でフェンスに近づき、カメラを構えた。

 シャッター音が、昼の光に小さく溶ける。

「屋上、来るの?」

「たまに。風が気持ちいいから」

「わかる」

 会話は、それだけで十分だった。

 彼はしばらくして、カメラを下ろし、私のほうを向いた。

「さっき、写真撮ってもいい?」

「え、私を?」

「ううん。影。君とフェンスの影が重なってるとこ。線がきれい」

「あ、いいよ」

 私は一歩、影に寄る。

 彼はシャッターを切った。

 撮られたのは私ではなく、私の影。でも、それは確かに、今の私の形だった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「――あ、そうだ。俺、朝倉(あさくら)っていう。二年C組」

「私は二年A。佐伯、由衣(ゆい)」

「由衣。いい名前だね」

 名前を呼ばれる。

 今日、初めて自分の名前を、ちゃんと聞いた気がした。

 私の形が、ここにある。私の名前が、ここにある。負けたこととは別に、ちゃんと。


 屋上からの帰り際、朝倉が言った。

「さっきの写真さ。もしよかったら、データ送るけど」

「うん、欲しい」

 連絡先を交換する、という行為には、必ず少しだけ緊張がついてくる。スマホを差し出す指先。画面に映る自分の顔。

 登録された新しい名前。通知の音。

 軽やかすぎない、静かすぎない。ちょうどいい音量の“トン”が、胸の内側で鳴った。


     ◇


 放課後、昇降口で詩織を待っていたら、雪村くんが、少し離れた場所で靴を履いているのに気づいた。

 視線が合う。彼は、困ったように、それでも誠実に微笑んだ。

「今日さ、ほんとに、ごめん」

「ううん。こっちこそ、聞いてくれてありがとう」

 このやりとりは、終わりの儀式みたいだった。

 私たちの間の空気は、確かに昨日より、ましだった。お互いに“未処理のデータ”を、少しずつ読み込み終えていく感じ。

「その……部活、がんばって」

「うん。ありがとう」

 それだけ言って、彼は校庭へ向かった。

 その背中は、やっぱりやさしい。

 でも、私のものではない。

 私はそれを、ちゃんと遠くから見つめることができた。昨日の私にはできなかったことが、今日はできた。それだけでも、今日はもう、昨日と違う。


 詩織が来た。プリンを二つ持っている。

「行くよ」

「うん」

 校門を出て、コンビニへ。

 プリンの上のカラメルが、歩くたびに小さく震える。

 店のレジ横のドーナツは、シュガーが白く光っていて、砂の粒みたいに全部ちがう形で甘そうだった。

 私たちはベンチに座って、プリンのフィルムを慎重にはがす。

「ねえ」

 スプーンで最初の一口をすくう瞬間、詩織が言う。

「“もう泣かない”って、宣言するのはいつでもいいけど、泣きたいときは泣きな」

「うん」

「それから。あんた、今日、ちゃんと学校来てえらい」

「それ、さっきも言ってた」

「大事なことは二回言うの」

 プリンは冷たくて甘くて、喉の奥にやさしく消えた。

 今日の甘さは、ちゃんと甘かった。この甘さを感じられる私が、今ここにいる。


     ◇


 夜。

 ベッドに横になって、天井を見上げる。

 朝倉から、メッセージが来ていた。

《さっきのやつ。影、すごくきれいだった》

 写真が添付されている。

 開くと、フェンスの直線と、私の影の輪郭が重なって、グラフみたいに、今日という日の形が描かれていた。

 影は、私がそこに“いた証拠”だ。

 影がきれいだと言われるのは、少し不思議だけど、なんだか悪くない。

《ありがとう。送ってくれて》

《こちらこそ。おやすみ》

《おやすみ》

 スマホを伏せて、目を閉じる。

 今日は、昨日より少しだけ長く、呼吸を深くできる。

 私は今日、告白して、振られて、泣いて、学校へ行って、砂の光を見て、影の写真をもらった。

 たったそれだけのことなのに、世界は、ほんのわずかに、違って見える。


 恋は、終わった。

 でも、終わったのは恋であって、私じゃない。


 ――恋の終わりは、私の始まりだった。


 その言葉を、心の中でそっと繰り返す。

 今日の私にとって、それはまだ宣言ではなく、予告に近い。

 でも、予告がある物語は、きっと続いていく。

 私は明日も起きて、学校へ行って、きっとまた何かを少しだけ変える。

 “負けヒロイン”というラベルの上から、透明なラベルを一枚、重ねるみたいに。

 そこには、いつか、こう書けるだろう――


 「由衣。もう泣かない」

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