第7話 ノア 18歳
「もう別れよ、あたしたち」
高校の卒業式は、雪が降り出しそうな寒い日だった。体育館での式が終わると、教室で遊び仲間たちと騒いで、いつものようにふたりで教室を出た。
そして自転車置き場まで来たとき、突然言われたのだ。半年つき合った芽衣子に。
「わかった。いいよ」
そう答えたら、目の前に立つ芽衣子が顔をしかめた。
「なにそれ、乃蒼はほんとにいいの? あたしと別れても」
「だって別れたいんだろ?」
芽衣子の顔がかあっと赤くなり、甲高い声で叫ぶ。
「やっぱり乃蒼って、好きな女がいるんでしょ? 最初からあたしのことなんか好きじゃなかったんでしょ!」
相手が熱くなればなるほど、こっちはすうっと冷めてくる。
おれは芽衣子に背中を向けて、自転車の鍵を開けながら答えた。
「うん。好きじゃなかった」
「はぁ?」
「だいたいおれ、最初から好きだなんてひと言も言ってないし、好きだったらつき合わなかった」
「意味わかんないし!」
自分でもわからない。なんでこんな好きでもない女とつき合ったのか。
芽衣子がおれの前にやってきて、人の顔を指さして言う。
「乃蒼、あんた最低だね。やることやって、いまさら好きじゃなかったなんて、よく言えるよね。あんたの顔なんて二度と見たくない」
「よかったな、今日が卒業式で。もう二度と会うことはないよ」
パチンと乾いた音がした。
「死ねっ!」
芽衣子が背中を向けて去っていく。頬に触れたらちょっとヒリヒリして、殴られたんだってやっと気づく。
こんなの全然痛くないけど。
顔を上げると、こちらを見ながらひそひそ話している生徒たちの姿が見えた。
おれは自分の自転車を取り出して、それを押しながらその場を離れる。
ああ、面倒くさい。すべてがもうどうでもいい。
でも――。
自転車のハンドルをつかんでいる右手を見下ろす。
殴られたのが自分でよかった。この手を振り下ろさなくてよかった。
そう思いながら、ハンドルを強く握りしめた。
中学二年生の冬、警察だか児童相談所だか、よくわからない人たちがうちに来て、おれと妹はあの親から引き離された。
うちの親が子どもを虐待していると、前から通報されていたらしく、それがやっと動き出したのだ。おれにとってはいまさら?って感じだったけど。
それから少しの間施設で暮らしたあと、おれは同じ県内に住んでいる、ほとんど会ったことのない祖父母の家に引き取られた。
祖父も祖母もおれと暮らすことをあまりよく思っていないようだったけど、怒鳴ったり殴ったりしないし、食事を三食作ってくれるし、高校にも行かせてくれた。
おれがこうやって暮らせているのはふたりのおかげで、それはすごく感謝している。
痛い思いも、苦しい思いも、しなくていい。悔しくも、悲しくも、寂しくもなくなった。
だけどそれがすべてなくなったら、おれの心の中で燃えていたものがすうっと消えていって、燃えカスしか残らなかった。
それからは勉強も遊びもやる気がしなくて、ただぼんやりと毎日を過ごした。
同じクラスの芽衣子からつき合ってって言われて、キスもそれ以上のこともしたけど、なにも感じなかった。
『乃蒼、あんた最低だね。やることやって、いまさら好きじゃなかったなんて、よく言えるよね』
ああ、そうだよ。おれは最低なクソ男だ。
自転車にまたがって、ハンドルを握る。その手に、白いものが落ちた。顔を上げたら、空からちらちらと落ちてくるものが目に映る。
「雪だ……」
そういえばこんなふうに自転車に乗りながら、雪を見上げたことがあったっけ。
あのときの心の中は、今日みたいに冷めていなかった。いつもイライラしていて、どうしようもなく腹が立って、ずっと熱があるみたいに体が熱かった。
だからあのとき……アパートを飛び出して、自転車のペダルを思いっきり踏み込んだんだ。
どうしても伝えなきゃって思ったから。好きな子を傷つけたくなかったから。
『もう、会うのやめよう』
あのころ一番怖かったのは、母親でも父親でもなかった。あんな親に育てられた自分が、あんな親みたいになってしまうのが――一番怖かったんだ。
『待って! やだ! 行かないでよ!』
だから逃げた。おれはイブから。
うつむいて、ぎゅっとハンドルを握り締める。冷たい雪が、手の甲や制服を濡らしていく。
「なんでいまごろ……思い出すんだよ……」
あの家を出てから、一度も公園には行かなかった。イブの連絡先は消去して、すべて忘れたつもりだった。
はじめて会った日のあどけない顔も。首に巻いてもらったマフラーのぬくもりも。キスしたときの冷たい唇も。
全部忘れたはずだったのに。
「くそっ……」
思いっきりペダルを踏み込み、自転車を走らせる。祖父母の家ではなく、あの公園に向かって。
どうやって行くのかも、どのくらいかかるのかも、わからなかった。
なんでこんなことしているのかも、こんなことをして意味があるのかも、わからなかった。
でもあのころ、自転車を飛ばして坂道を上ったときみたいに、イライラして腹が立って――どうしようもなく、イブに会いたかった。
スマホのマップで道を調べながら、あのころ住んでいた町に着いたのは、夜遅い時間だった。途中から雪が積もってきて、何度もタイヤが滑って転んだ。それでも自転車を押しながら坂道を上り、あの公園の前までやってきた。
「はぁ、はぁ……」
息を切らしながら公園を見る。そこには誰もいない。
おれは振り返ると、公園のそばにあるアパートに駆け寄った。そしてイブの住んでいる部屋のドアの前まで行く。
「えっ……」
そこで思わず声を漏らしてしまった。
ドアに『空室』という張り紙が貼ってあったからだ。
「そんな……」
窓から中をのぞいても、誰かが住んでいる気配はなかった。
イブはもう、ここには住んでいないんだ。
ふらふらと公園に戻る。自転車が手から離れ、ガシャンと音を立てて倒れる。そのままおれも、積もった雪の上に膝をついた。
遅かったんだ。いまさらこんなところに来ても……イブに会えるわけがないんだ。
「バカだ……おれは……」
なにげなく手を見ると、血が出ていた。さっき転んだときに、すりむいた傷だ。
その手を握って、思いっきり地面を叩いた。だけどそこには雪が積もっていて、なんの痛みも感じない。
「くそっ、くそっ、くそっ……」
何度叩いても、雪にうっすらと赤い跡がつくだけだ。
殴って殴って、めちゃくちゃにしてやりたかったのに。こんなどうしようもない自分のことを。
そのときふと、黒い影に気づいた。薄暗い街灯に照らされたブランコ。その上になにか黒いものがのっている。
「なんだ、あれ……」
おれはゆっくりと立ち上がる。
最初は黒い猫でもいるのかと思ったけど違う。あれは生き物じゃない。
雪を踏みしめ、一歩一歩近づく。黒いものの上に、うっすらと雪が積もっている。
「なんで……」
手を伸ばして雪を払う。
そこにあったのは見覚えのあるダウンジャケット。
「おれのだ……」
手に取って確信する。これはずっと前、イブにかけてやったジャケットだ。
「イブ!?」
我に返って、あたりを見まわす。
イブがここに来たんだ。雪はうっすらとしかのっていない。少し前にイブがここに来たんだ。
「イブ!」
公園の外へ出て叫ぶ。坂道は真っ白に染まっていて、静まり返っている。
「イブ……ごめん」
ジャケットを抱きしめてつぶやく。
「あのとき、あんなこと言ってごめん。ほんとはもっと一緒にいたかった。でもイブを殴ったりしたらどうしようって、自分が怖くて、自信がなくて……ほんとに……ごめん」
自分の声が雪に吸収されていく。手も耳も唇も、凍りそうなほど冷たい。
「いまさらこんなこと言っても遅いけど……」
でも伝えたかった。
「大好き……なんだ……」
熱い涙が冷たい頬を伝って、足元にぽとりと落ちた。
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