第5話 イブ 14歳

 チリンと自転車のベルの音がした。

 ジャケットのフードをかぶって、ブランコに座ったままうつむいていたあたしは、ゆっくりと顔を上げる。

「ノア?」

 自転車を止めたノアが、かすかに雪が降る中、こっちに向かって歩いてくる。あたしはフードをはずして、立ち上がった。

「ノア! 来てくれたんだ!」

 その拍子に、膝の上に置いてあったレジ袋が地面に落ちた。袋の中から中華まんとカッターが飛び出る。

 ノアはあたしの前で立ち止まると、落ちているものを黙って見下ろした。

「へへっ、また切っちゃった」

 あたしはノアに向かって手首を見せる。まだ赤い血が滲んだままだ。

 ノアはちらっとそれを見たあと、地面に落ちているものを拾って袋に戻した。それをあたしに差し出てつぶやく。


「もうやめろよ。そういうの」

「え?」

 ノアはあたしの胸に袋を押しつけると、ブランコに座った。あたしは突っ立ったまま、その姿を見下ろす。

「なんでそんなこと言うの?」

 いままで一度も「やめろ」なんて言わなかったのに。

「あっ、もしかして心配してくれてるの? あたしだったら大丈夫だよ。こんなの全然痛くないし」

 へらっと笑って見せたけど、ノアはなにも言わずにうつむいている。あたしは袋の中から中華まんをふたつ取り出した。

「ねぇ、これ食べる? もう冷めちゃったけど」

 だけどやっぱりノアは黙っている。あたしのことを見ようともしない。

 なんで? どうして? ノアがいつものノアじゃない。

 あたしが肉まんをあげれば、うれしそうに食べてくれたのに。あたしが手首を切れば、ちゃんとこっちを見てくれたのに。

 これだけじゃだめなの? まだ足りないの?


 あたしはノアの前にしゃがみこんだ。そしてブランコのチェーンを両手で握りしめると、ノアの唇にキスをした。

 冷たい冷たい、雪のキス。

 唇を離すと、ノアがあたしのことを見つめていた。そしてあたしに言ったんだ。

「もう、会うのやめよう」

「え?」

 ノアが黙って立ち上がる。あたしも慌ててノアの前に立つ。

「なんで? 意味わかんない。ノアはあたしのことが好きなんでしょ? あたしもノアが好きだよ? だからいままでみたいにずっと会おうよ」

「だめだ」

 あたしの体を振り払って、ノアが歩き出す。あたしは走ってノアの正面に回ると、その体に抱きついた。

「ノアがやめろって言うなら、リスカはやめる。ノアが食べたいって言うなら、肉まんよりもっとおいしいもの買ってあげる。ノアがしたいっていうなら、キスよりもっと気持ちいいことしてあげるよ?」

 ノアに抱きついたままその顔を見上げると、ノアはどこか悲し気な目であたしを見ていた。

「やっぱりおれもお前も、あの親の子どもだな」

「え?」

 口を開けたあたしを無理やり引きはがし、ノアがまた歩き出す。


「ちょっと待って! やだ! わかんない! わかんないよ!」

 あたしは必死に追いかけて、ノアの腕をつかむ。

「離せよ!」

 だけどノアはその手を乱暴に振り払って叫んだ。

「おれは好きな子を傷つけたくないんだよ!」

 あたしは呆然とノアの顔を見つめる。

 だってノアの目には涙が浮かんでいたから。

「ノア……」

 ノアの涙を見たのははじめてだった。どんなに痛い目にあっても、どんなにひどいことを言われても、どんなにお腹がすいても……ノアが泣くことはなかったのに。

 顔をそむけたノアに言う。

「あたしは大丈夫だよ? ノアになら痛いことされても大丈夫。苦しいことも、恥ずかしいことも、ノアにならされても大丈夫だよ?」

 だってあたしは、ノアのことが好きだから。ひとりぼっちのあたしには、ノアしかいないから。

 ノアだって……そうじゃないの? そうだよね?

 ノアがあたしから顔をそむけたまま、洟をすすってつぶやく。

「おれは……大丈夫じゃない」

 そして自転車に飛び乗ると、勢いよく走り出した。


「えっ、ちょっと待って! ノア!」

 あたしはそのあとを追いかける。真っ暗な坂道は雪でほんのり白くなっている。

「待って! やだ! 行かないでよ!」

 雪についた細いタイヤの跡を追いかける。だけど足が滑って、あたしは見事に顔面からすっ転んだ。

「いった……」

 鼻を押さえたら、白い雪の上にぽたぽたと真っ赤な血が落ちた。

 あたしはこんなときでも「生きている」。

「うっ、うっ……」

 雪の上に座って、鼻血を垂らしながら、あたしは声を上げて泣いた。

 こんなに好きなのに。ノアがほしいものはなんでもあげるのに。ノアがしたいことならなんでもしてあげるのに。どうしてもう会えないの?

 わかんない。あたしはバカだから、全然わかんない。


 真夜中の坂道で、あたしは雪が降り続く中、ずっと泣いた。

 そしてあたしがノアに会ったのは、その夜が最後になった。

 翌日からノアは学校に来なくなり、もちろん公園にも来なくなり、いつの間にか坂の下のアパートからいなくなってしまったから。

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