第3話 イブ 14歳

 いつもみたいにカッターの刃をキリキリと伸ばしたところで、玄関のドアが開く音がした。

 あたしは小さく息を吐き、伸ばした刃を元に戻す。そしてそれをポケットに突っ込むと、黒いダウンジャケットを羽織り、襖を開いて部屋を出た。

「あっ、すみません。お母さん、飲みすぎちゃったみたいで」

 玄関にいたのは、眼鏡をかけたスーツ姿のおじさんと、その人にもたれかかっているあたしのママ。

「日野ちゃーん、上がってってぇ」

 ママの甘ったるい声があたしの耳に響く。

「でも娘さん、いるんだろ?」

「大丈夫、大丈夫。イブは出かけるんだよねぇ? これから」

 ママの潤んだ目があたしを捉える。あたしはその目に逆らえない。

「うん」

 短く答えると、ふたりを押しのけるようにして靴を履いた。

「なんだか悪いね」

「いいの、いいの、気にしないで。早く上がってよぉ、日野ちゃん」

 あたしと入れ替わるように、2Kの狭い部屋にふたりが上がっていく。体をべったりくっつけて、絡まり合うようにしながら。

 人のよさそうなおじさんなのに……大人はみんな汚らしい。

 外へ出て玄関のドアを閉めると、部屋の中からママのなまめかしい声が聞こえてきた。あたしはその声から逃げるように、夜の闇に向かって走り出した。


 公園のブランコに座って、あたしはスマホの画面を見ていた。

「なんで?」

 いつもならメッセージを送ればすぐ来てくれるのに、今夜は既読にすらならない。

「肉まん、冷めちゃうじゃん」

 膝の上にのせたレジ袋を見下ろしながら、あたしはため息をつく。

 もしかして今日の昼休みの事件に、ノアが関わっていたって噂、本当なんだろうか。

 一組の子が階段から落ちて、そのときノアが一緒にいたって。

 その子を突き落としたのは、ノアなんじゃないかって。

 ぶるぶるっと首を横に振ったとき、スマホにメッセージが届いた。

 ノアからだった。

【ごめん。今夜は行けない】

 なんで? こんなこといままで一度もなかった。あたしが呼べば、ノアはいつでもどこでも来てくれた。

 だってノアは、あたしのことが好きで好きで、大好きだから。

 あたしはメッセージの画面を黙って見下ろしたあと、かじかんだ指を震わせながら入力する。

【肉まんあげるよ?】

【ごめん】

 来ないんだ。本当に。

 あたしは小さく息を吐き【わかった】と返事を送ると、スマホをポケットに突っ込んだ。そのとき、ポケットの中にカッターを入れてあったことを思い出す。


 薄暗い街灯の下で、カッターを取り出した。手に白い息を吐きかけてから、キリキリと刃を伸ばす。街灯の明かりに照らされた刃は、鈍く光っている。

 手首に当てたら、ひんやりと冷たかった。あたしはそれを、勢いよく動かす。

『痛くねぇの?』

 ノアだけどノアじゃないみたいな、かすれた声が聞こえてくる。

「痛くないよ」

 ひんやりと冷えた肌に、生ぬるいものが湧き上がる。あたしの中に流れている血液だ。

 それを見ると、生きているんだって思える。この世界に生まれてはいけなかった命だけど、あたしはまだ生きている。

 赤い線のついた手首が熱くなる。その上に冷たいものがふわりと落ちて、じんわりと滲んだ。

「……雪?」

 顔を上げると、空から落ちてくる白い雪が、街灯の明かりでキラキラ光っていた。

「さむ……」

 あたしはコンビニの袋にカッターを突っ込んで、ジャケットのフードをかぶる。

 大きめの黒いジャケットから、もうノアの匂いはしなかった。

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