第2話 ノア 14歳

「好きなの」

 どんよりと曇った日の昼休み。騒がしい廊下から階段を上ったところにある踊り場。この先は立ち入り禁止になっている屋上しかないから、普段来る生徒はいない。

「中学に入ってからずっと、乃蒼のあくんのことが好きだったの」

 目の前でそんなことを言っている、セーラー服姿の女子生徒。たしか一年のときから同じクラスの……渡部わたべだ。

「ねぇ、わたしとつき合って? お願い! いいでしょ?」

 ゆるく結ばれた胸のリボンの前で、渡部が両手をパチンと合わせた。

 長く伸びたピンク色の爪が、つやつや輝いている。

 おれはその爪を見ながら口を開いた。

「なんで?」

「え?」

「なんでつき合わなきゃなんねぇの?」

 階段の下から、女子生徒たちのキャーキャー騒ぐ声が響いてくる。

「なんでって……わたしの話聞いてた? わたしずっと、乃蒼くんのことが好きだったから……」

「でもおれは好きじゃない」

 合わさっていた手がふにゃりとゆるんで、だらんと下に下がる。

 その手を見ていたおれに、渡部が言った。


「あのさぁ、乃蒼くんって……やっぱり衣舞いぶのことが好きなの?」

 イブ、の名前が聞こえて、おれはゆっくりと顔を上げる。目の前に機嫌悪そうな表情の渡部がいた。

「乃蒼くんって、小学生のころから衣舞と仲よかったらしいけど。衣舞ってかまってちゃんだから、ほんとは付きまとわれて、困ってたんじゃないの?」

 渡部の足が、一歩こっちに近づく。

「知ってる? あの子、リスカしてるんだよ? 夏も、体育のときも、長袖で隠してるけど、わたし更衣室で見ちゃったもん。腕にいっぱい傷ついててさぁ、ヤバいよ、マジで」

 渡部はすっと手を伸ばして、おれの腕をつかんだ。髪からなのか、服からなのかわからないけど、どこかから甘い匂いが漂ってくる。

「あの子のママもヤバいらしいよ? 二組の日野ひのさんって知ってる? 衣舞のママが日野さんのパパをユーワクして、家に連れ込んだんだって。日野さん、泣いてた。衣舞のママにパパを取られたって……」

「離せよ」

 渡部の手を振り払った。そんな話は聞きたくなかった。


「ちょっと待ってよ! 乃蒼くん!」

 階段を降りようとしたら、渡部がしつこくおれの腕をつかんできた。

「衣舞なんかやめなよ! 乃蒼くんも騙されてるんだよ!」

 足を止めたおれの前に、渡部が立つ。

「あのね、衣舞も大人の男の人とつき合って、お金もらってるらしいよ? うちのママも言ってたもん。あんな親だから、あんな子なんだねって」

 うるさい。

 渡部がもう一度、おれの腕をつかむ。

「だからやめなよ、あんなメンヘラ女」

 うるさい。うるさい。

 渡部の手に力がこもって、爪が腕に食い込んだ。体の奥から、かあっと熱いものが込み上げてくる。

「ねぇ、乃蒼く……」

「うるせぇ!」

 怯えたように渡部の目がまん丸くなったのが見えた。でもすぐにその姿が目の前から消えていった。


「キャー!」

 階段の下から聞こえる悲鳴。見ると廊下の床に渡部が横たわっている。

「どうしたの!」

「渡部さんが階段から落ちた!」

「渡部さん! 大丈夫!?」

「先生! 早く来てください!」

 集まってくる女子生徒と、駆け寄ってきた教師。おれは踊り場に立ったまま、その様子と自分の手を、交互に見つめる。

 渡部の手を、振り払いたかっただけだった。だけど、湧き上がってくる熱い怒りを止められなくて……この手で渡部の体を力任せに突き飛ばしていた。

『あんな親だから、あんな子なんだね』

 騒がしい声の中、その言葉だけが耳にはっきりと聞こえた。

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