白い闇のなか、君に触れる
水瀬さら
第1話 イブ 14歳
「切っちゃった」
薄暗い街灯がぼんやりと灯る、真夜中の公園。あたしはブランコに座ったまま、ノアに向かって腕を見せた。
「今日は三本」
パーカーの袖をまくったあたしの腕には、たくさんの古い傷痕に混じって、三本の赤い線が滲んでいる。
自転車を飛ばして坂道を上ってきたノアは、その線をじっと見つめたあと、あたしの隣のブランコに腰かけた。
ひんやりと冷えた公園に、ギイッと錆びた音が響く。
「痛くねぇの?」
声変わりの途中のちょっとかすれた声で、ノアがつぶやいた。小学生のころはもっとかわいい声だったし、身長だってあたしより低かったのに。
最近ノアが、あたしの知っているノアじゃないように感じてしまうときがある。
あたしはパーカーの袖で傷痕を覆いながら、ノアに答えた。
「痛くないよ。どっちかっていうと……熱い感じ?」
「熱い?」
「うん。なんていうか……生きてるって感じがするの」
「へぇ……」
ノアはわかっているのかいないのか、微妙な返事をした。
「あっ、ノア。もしかしていま、あたしのこと心配してくれたの?」
握ったチェーンをぐっと隣のブランコに近づけて、あたしは聞いた。
ノアはふてくされたような顔で一瞬あたしを見たあと、「あたりまえだろ」って答える。
「おれはイブのことが好きだから」
その声が胸の奥に沁み込んで、あたしの心がじんわりとあったかくなった。
ノアはあたしのことが好きだ。好きで好きで、大好きで。こんな真冬の真夜中に突然呼び出しても、自転車を飛ばして会いに来てくれる。
「あたしも好きだよ。ノアのこと」
ノアの顔をのぞき込むようにして言ったら、ノアはあたしに顔を近づけて、あたしの唇にキスをした。
ノアの唇はひんやりと冷たい。氷みたいだ。
その唇が離れると、あたしはレジ袋から中華まんをふたつ取り出した。ここに来る前、坂の上のコンビニで買ったんだ。
「食べる?」
あたしが聞いたら、ノアがうなずいた。
「あんまんと肉まん、どっちがいい?」
「肉まん」
右手に持っていた肉まんをノアに差し出す。
「だよねー」
「わかってるくせに聞くなよ」
ノアはあたしから肉まんを受け取ると、「いただきます」と言ってから、大きな口を開けて食いついた。
よっぽどお腹がすいていたんだろう。隣のあたしには見向きもせず、肉まんを頬張る。
あたしはそんなノアの姿を見ながら思い出す。
はじめてここで会った、小さかったノアのことを。
***
あれはあたしたちが小学校に入学する少し前。
ママから五百円玉を握らされ、アパートの部屋から追い出されたあたしは、コンビニで肉まんとあんまんを買ってこの公園に来た。
今日みたいに寒い夜だった。たぶん、子どもがひとりで出歩いてはいけない時間だ。
でもママにすがることはできず、行くところもなかったあたしは、いつものようにアパートの前にあるこの公園に来るしかなかった。
そうしたらいたんだ。ノアがひとりぼっちで、ここに。
はじめて会ったノアはあたしより小さくて、やせっぽちで、汚い服を着ていて、目のあたりがひどく腫れていた。
あたしはちょっとびっくりしたけど、こんな時間にここで子どもに会うのははじめてだったから聞いてみた。
「あんたどこから来たの?」
ノアは黙って坂道の下を指さした。
あとから聞いた話によると、ノアはこの日の少し前に、坂の下にあるアパートにお父さんとお母さんとお兄ちゃんと妹と引っ越してきたそうだ。
そしてその日は、酔っぱらったお父さんに顔をぶん殴られたのだと言っていた。ノアの家ではよくあることらしい。
「名前は?」
「ノア」
ノアはぼそっと答えながら、あたしの持っていたレジ袋をじっと見ていた。
あたしは袋からあんまんと肉まんを取り出すと、ノアに見せた。
「食べる?」
ノアがうなずく。
「あんまんと肉まん、どっちがいい?」
「肉まん」
あたしは右手に持っていた肉まんをノアに渡した。
ノアは「ありがとう」とつぶやくと、勢いよく食べはじめた。これもあとから聞いたんだけど、この日は朝からなにも食べていなかったらしい。
あたしはブランコに座って、そんなノアを見ながらあんまんを食べた。するとあっという間に食べ終わったノアが、あたしの顔を見て聞いた。
「おまえの名前、なんていうの?」
「あたし? あたしはイブ」
「イブ……」
ノアがあたしの名前を噛みしめるようにつぶやいた。あたしの心がなんだかぽかぽかした。
あたしはマフラーをはずすと、それをノアの首に巻いてあげた。
「ノア、寒そう。これ使っていいよ」
ノアが驚いたような顔であたしを見る。
「でも、イブが寒いよ」
「あたしは平気」
そう言ってにかっと笑ったら、ノアもちょっとうれしそうに笑ってくれたんだ。
それからノアはあたしになついた。
この公園で会って、一緒に学校に行って、ふたりで遊んで……ノアはあたしのあとをどこまでもついてきた。
鳥のヒナって、はじめて会ったものを親と思っちゃうらしいけど、それとおんなじ感じ。
でもあたしもノアといるとなんだか安心できて、誰にも話せないことでもノアには話せた。
あたしにはパパがいないこと。ママは夜の仕事をしていること。時々男の人がアパートに来て、あたしは追い出されること。
ノアも同じように、なんでも話してくれた。
お父さんは酔っぱらうと暴力を振るうこと。お母さんはご飯を作ってくれないこと。だからいつもお腹がすいていること。
やがていつからか、あたしたちは普通の子どもとは違うってことに気がついた。
中学生になったとき、あたしははじめてママに反発した。
「ママみたいな女の子どもに生まれたくなかった!」
するとママが言い返してきた。
「わたしだって子どもなんか、産みたくなかったよ!」
その日わかったんだ。
あたしはママにとって、いらないものだったんだって。
あたしはこの世界に、生まれてはいけなかったんだって。
そしてそれでもあたしは、ママに育ててもらうしかないんだってことも。
***
ぶるっと体が震えた。風が冷たい。あたしは最後のひと口のあんまんを口に放り込むと、ブランコから立ち上がった。
「寒いからもう帰る」
レジ袋をぐしゃっと丸めて、ゴミ箱に放り込む。そんなあたしの背中に、ふわりとなにかがかかった。
「そんな薄着でバカじゃねぇの?」
パーカーしか羽織ってこなかったあたしの背中には、ノアの黒いダウンジャケットがかけられている。
「それ貸してやるから、ちゃんと着ろよ」
「え、でもノアは……」
「おれは平気」
そう言うとノアはあたしに背中を向けて、自転車にまたがった。
「じゃあな」
「あ、うん」
ノアの足がペダルを踏み込む。自転車が勢いよく走り出し、あっという間にあたしの視界から消えてしまう。
あたしは傷だらけの手で、ダウンジャケットをつかんだ。それはあたしにとっては少し大きい。
ノアってば、いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろう。大きくなって、あんまり遠くに行かないでほしいのに。
ジャケットをそっと、顔に寄せた。
「……ノアの匂いがする」
世界で一番、あたしの好きな匂いだ。
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