3 小学校の低学年、呼び出し

 お化け屋敷の一件から何日か経った頃の放課後、俺は女子グループに呼び出された。


 また何か、顔のことで文句でも言われんのかな。早く終わんないかな。すぐには帰れないかな。


 考えていたことは、そのくらいだった。


 その頃の俺は、まだ水泳は始めていなかった。けど、ごく個人的な用事で学校が終わるとまっすぐ家に帰っていた。だから、早く帰りたい気持ちで、用事をとっとと終わらせたい気持ちで、呼び出しに応じただけだった。


 睨んでるのか非難したいのか、なんにしてもよく思っていないと分かる女子たちの視線が突き刺さってくる。顔を少しだけ俯けて、彼女たちが満足するのを待つ。


 何を言っても、尋ねても、行動しようとしても。こういう時の人間は俺を〝同じ人間として扱わない〟と、どんな人間でもそれは同じらしいと、俺は学習し始めていた。


『あのさ』


 グループのリーダー的な立ち位置にいる女子が、苛立ったように声を出す。


『アレ、わざと?』


 アレ、が何を指すのか分からなくて、ちらりとリーダーの女子へ、疑問の目を向けた。

 俺に目を向けられたリーダーの女子は、とても嫌そうに顔を歪める。


『アレだよ、アレ。お化け屋敷』


 お化け屋敷、と言われても、まだ分からなかった。

 リーダーの女子は察しの悪い俺にさらに苛立ったようで、俺をきつく睨んで、


『小鳥遊さんのこと、わざと怖がらせたんじゃないのかって言ってんの』


 俺の心臓に穴を開ける言葉を放った。


『怖がってんのにお化け屋敷入らせて、小鳥遊さん、泣いちゃってたじゃん。鮫島が泣かせたんじゃん。怖いお化け屋敷にこっわいカオの鮫島と入る羽目になって、泣かないワケないでしょ』


 俺が燐音を守れなかったから、燐音を泣かせてしまった。


 指摘されたことは紛れもない事実だと、思っている自分と。


 俺の顔って、お化け屋敷より怖いんだ。


 気にしなきゃいけないはずのことを、他人事のように考えている自分がいた。


 穴が開いた心臓からは血が噴き出していて、今にも泣いてしまいそうだった。少し俯けていた顔を、完全に自分の足元へ向けるくらいしか、今できることが思いつかない。


『小鳥遊さんが仲良くしてくれるからって、鮫島、アンタ、最近調子乗って──きゃあ?!』


 リーダーの女子が突然叫んで、ほぼ同時に、何かが倒れたかぶつかったような音がした。周囲の女子たちも、驚きや怯えを思わせる声を出したりして、自分の身を守るように数歩下がった、らしい。


 何が起きたのか、それこそ訳が分からなくなって、顔を上げかけた俺の耳に、


『なおちゃんに何してんだお前らァ!』


 燐音の怒声が届く。

 届くというか、呼び出された空き教室から廊下まで響き渡るくらいの大声だった。錯覚だとは思うけど、窓ガラスがビリビリ震えた気もした。


『燐音?!』


 教室で待ってろって言ったのに。

 そんな声も出せるのかお前。

 驚いて名前を呼んでしまいながら、顔を上げた俺は。


『燐音?!?!』


 予想してなかった──してたかもしれないけど、燐音がそこまでするはずないと頭から追いやっていた──光景を目にして、さらに驚いた。


 リーダーの女子を押し倒したらしい燐音は、リーダーの女子に馬乗りになっていた。

 燐音の手、両手は、ランドセルの上下を挟むように持っている。

 どう見ても怒っている顔の燐音は、なのに、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。

 その燐音が、ランドセルを、教科書やらペンタブやらの教材が詰め込まれている鈍器を、掲げるように頭の上へと移動させる。


 ヤバい。本気だ。


 これからどうなるか、燐音が何をしようとしているか。予想がついた瞬間、血の気が引いた。


 燐音を止めないと、燐音がヤバい。


 押し倒されたリーダーの女子は、痛みと混乱で状況を分かっていなさそうで、『ちょっと?! 小鳥遊さん?! 何すんの?!』と、燐音を睨んで喚くだけ。周囲の女子たちは完全に狼狽えていて、誰かどうにかしなよ、と言いたげに目配せし合っているだけ。


 動けるのは、止められるのは俺だけ。


 だから動いた。


 燐音のために、燐音を止めようと動いた。


『燐音! やめろ!』


 こんなことになったからって、そんなことすんな。


 呼びかけても燐音は反応しない。分かってる。こういう時の燐音は、俺より、俺の〝敵〟を〝無力化する〟ことを優先する。


 そして今、まさに〝無力化する〟ために、やっと状況が分かってきたのか、まさかと目を見開いたリーダーの女子、その顔面めがけて、ランドセルを振り下ろ──


『燐音!!』


 ──す、燐音へ勢いをつけて突っ込み、両腕で燐音を捕まえて腕の中に抱き込み、勢いを使って燐音をリーダーの女子から引き剥がす。


 そうなるだろうと予想していたけど、俺は床へ体を叩きつけることになった。

 でも、燐音に怪我なんてさせるもんかと、しっかり抱え込んでいたおかげか、痛みに呻いたのは俺だけで済んだようだった。


『……なおちゃん……?』


 呻いている場合じゃないと、気合いで起き上がったら、俺の腕から解放された燐音が見上げてきて、俺を呼ぶ。


 どうして止めたの?


 表情だけで訴えてきた。

 泣いたまま、悔しそうに。


『いい、から。しな、くて、いい。ちゃん、と、わか、てる、から』


 呻かないように気をつけて、最低限のことだけ言ってから、周囲へ目を向ける。俺の言葉を聞いた燐音が顔をくしゃりと歪めたのを、視界の端に捉えながら。


 燐音を宥めてやりたい。


 思うけど、体の怪我はなさそうだから、少し時間くれと心の中で謝って、やらなければならないことへ意識を向けた。


 燐音はランドセルを持ったままだった。

 もう武器は必要ないと言う代わりに──言っても聞かない可能性が高いから──燐音の片手へ俺の手を重ねる。

 力が抜けたようにランドセルから外れた燐音の手を、軽い力で握る。

 大丈夫だ、と伝える意味もあったけど、またランドセルを使わせないために、という意味のほうが強かった。


 燐音の〝防御〟を受けずに済んだリーダーの女子も、他の女子たちも。

 急転した状況についていけていない、というより、驚きを超えて思考が停止し、固まっている様子だった。


『先生……呼んできて……担任と、学年、主任の、先生と……あと、二人、くらい……それと、保健室の、先生、も……』


 見回しながら言ってみたけど、誰もが怯えたように肩を震わせるだけで、動こうとしない。


 動けないんだろうな。しょうがない。


 また、気合いを入れ直す。痛みに顔をしかめている場合じゃない。


『そこの、君』


 適当に目に入った一人へ、指を差しながら言った。指された女子はまた、怯えたようにびくりと肩を揺らす。

 今、人を指差してはいけません、なんて言ってる余裕も聞いてる余裕もない。言える奴がいたら、この状況へ対処して欲しい。


『学年、主任の、先生、呼んできて。今すぐ、職員室、行って』


 はいもいいえも言わない女子を放置して、その隣の女子、


『君は、担任の先生、呼んできて』


 その隣、


『君も』


 そのまた隣、


『あと君も、先生、呼んで』


 また隣へ、指を移動させた。


『君は、保健室の、先生、呼んで、きて』


 そろそろ動いてくれ、と思ったけど、迷う素ぶりを見せても、誰もまだ動かない。


 これで動いてくれ。


 願いながら、できるだけ強く、言った。


『君らの、友達が、怪我してる、かも、だろ……?! 早く……!』


 リーダーの女子を指し示すと、女子たちは我に返ったように──驚いたようにも見えたけど、今はそんなのどうでもいい──慌て始め、やっと動き出してくれた。


 俺が指を差して指示みたいなことを言っている間に、燐音は体を起こし、背中を丸めて俺の胸に顔を埋め、縋りつくように背中に腕を回してきた。


 その姿勢になってから燐音はずっと、今も、しゃくり上げながら泣いている。


 正直、体中が痛む今、抱きつかれて胸に顔を押し当てられると、痛む体が余計に痛くなって、ツラい。


 けど、それを燐音に言ったら。

 悲しませてしまうのは目に見えてるし、最悪……、考えるの、やめよう。

 燐音が落ち着くか、誰かしら先生が来るまで、このまま、だな。


 このまま、これ以上痛くならないように、じっとしていよう。


 燐音を落ち着かせられないかと思って背中を撫でたら、抱きついてくる力も顔を押し付けてくる力も強くなり、燐音は声を上げて泣き出した。

 失敗したなと思いつつ、俺は出そうになった悲鳴をなんとか飲み込んで、痛みに耐える。

 現状、背中を撫でる以外で、俺にできる燐音の落ち着かせ方が思いつかない。それに、撫で始めたばかりなのにやめたりしたら、燐音はもっと泣いてしまうかもしれない。


 呼んでもらった先生たちが到着するまで、声を上げて泣く燐音を落ち着かせようと背中を撫で続け、痛みで声を出さないように口を固く引き結んでいた。


 また助けてもらった。

 また泣かせてしまった。

 頭の中で、それらがぐるぐる回る。渦を巻く。

 どす黒く濁った、渦を巻いていく。


 そんな俺を、俺と燐音を、まるで〝バケモノ〟でも目にしているような恐怖と困惑の表情で見ている女子たちに、気づいた。起き上がることができたらしいリーダーの女子もその中に居て、同じような表情でこっちを見ている。


 そんな女子たちへ、俺はわざと『悪人面』で嘲笑うカオを見せてやった。


 呻くのも悲鳴を上げることもしたくなかったから、声を出さないように気をつけたけれど。


 俺が何を言いたいか、どう伝えたいか、女子たちに上手く届いたようだった。


 悪いのは、俺。

 バケモノなのは、俺。

 悪いバケモノなのは、鮫島直だけ。

 鮫島直という性悪なバケモノが、小鳥遊燐音という純粋無垢な存在を操り、自分のために動かしている。


 大体、そんな理解をしてくれたんだろう。女子たちは俺へ嫌悪の視線を、燐音へは哀れみの眼差しを、向けてきた。

 俺は悪でも、バケモノでも、この際どう思われようとも構わない。


 けど、燐音は。

 燐音は、そんな存在じゃないから。そんな存在にしてはならないから。

 それさえ分かってくれれば、いい。


 俺を呼び出した女子たちは、そこのところを分かってくれたようだから、燐音に変な噂が立ったりはしないだろう。

 あとで先生とかから事情を説明されたとしても、女子たちは自分たちが見たものを信じると思う。事情説明だってふんわりしたものになるはずだから、やっぱり女子たちは自分たちの考えが正しいと思うだろう。

 少しだけ、安心できる。

 呼ばれてやって来た先生たちが状況の把握に動いたり、怪我人やそれぞれの怪我の程度を確認したりし始める。

 その最中、女子たちはずっと、盗み見るように、それでいて分からせるように、俺へ軽蔑の視線を向けていた。


 次の日に学校へ行ったら、俺を呼び出した女子たちから、気の毒そうな目を向けられた。


 たぶん、先生とかから事情をふんわり説明されたんだろうけど。


 気の毒そうに見てくるだけだったから、俺はその視線を受け流した。

 

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