第16話 旅立ちの前

翌日。

まだ朝の冷たい空気が校舎に残っている。


けれど廊下を歩くこはる達の足取りは、どこか浮いていた。


「ねえねえパリって、エッフェル塔あるんだよね!?チョコ、本場で食べ放題!パン屋さんも映画みたいにいっぱいあるよね!? うわああ、信じらんない!」


こはるは机に突っ伏していた香澄の肩をガタガタ揺らしながらはしゃぎまくる。


「……うるさい。朝からテンションが海外。」


「いやでも!!春休み目前で海外だよ!? 宿題よりスーツケース準備のほうが重要事項なんだけど!!」


「それは全員そう」


健太が笑いながらプリントを配りつつ言う。


「俺なんかさっき母さんに『あんた海外出るなら小型辞書くらい持ってけ!せめて“ボンジュール”くらい覚えなさい!』って怒鳴られたからな」


「え、それくらい覚えてよ」と香澄が冷静に突っ込み、


「……ボンジュール……?」


健太はぎこちなく発音してみせ、全員に拍手される。


教室の空気は浮き立っている。

「今日で終業式、明日から春休み。なのに旅立ちは仕事。」

――そんな妙な状況が、どこか遠足前の子供のようで、心を軽くしていた。




こはるはふと横目で悠の席を見た。


悠はいつも通り教科書を眺め、ペンを持ったまま静かに何かを書き込んでいる。

けれど――


(……なんか今日、いつもよりかっこよく見えるのなんで……?)


胸の奥がふわっと熱くなる。 


視線が合いそうになってこはるは慌ててそっぽを向いた。


だが。


その一瞬、悠の手が止まっていたことに気づいた者がいた。


面白そうに目を細める香澄。

そしてニヤニヤが止まらない健太。


「なぁ香澄」


「ええ、見たわ。完全に“恋の湿度”よ」


「湿度って何!!?」


こはるが真っ赤になって抗議するが、ふたりの追撃は止まらない。


健太が肘でこはるを小突きながら小声で囁く。


「パリってさ……恋の都だよな?」



健太はさらにダメ押しで悠のほうに向けて――わざと聞こえる声量で言った。


「悠~!パリでこはるのエスコート頼んだぞー!」


ガタンッ!


悠は椅子を軽く蹴って立ち上がりかけ――


「……べ、別に……俺は仕事で行くだけだ。護衛対象に不便がないよう動くだけ」


「声震えてるぞ?」


健太がニヤつきながら突っ込む。


「震えてない」


「震えてる」


「震えてません」


「……両方震えてる」と香澄が淡々とまとめた。


教室に笑いが弾ける。


こはるは俯いたまま、小さく呟く。


「べ、別に……変な意味じゃなくて……ただ、同じメンバーで行けて嬉しいなぁーと……」


その声は遠くない距離で、ちゃんと悠にも届いていた。


悠は息を吸い、少しだけ柔らかい声で返す。


「…うん。俺も」


その瞬間――


「キャーーーー!!!青春!!!」

健太と香澄が同時に叫び、こはると悠は揃って顔を赤くした。


***


チャイムが鳴り、先生が入ってくる。

けれど心はすでに、日本を離れて遠い外国へ向かっていた。


エッフェル塔。

古い石畳。

夜のセーヌ川。

そして――あの“K”が待つ国。


胸の鼓動は不安と期待と、その間に芽生えた微かな恋の温度で満ちていた。


物語は、旅立ちまであと数時間――。

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