第10話 溶け残る記憶

翌朝。

窓の外は、薄く雲のかかった灰色の空。

ホームルーム前の教室は、ざわざわとした笑い声で満ちていた。

机の上には色とりどりの包装紙、リボン、手作りチョコの箱。

――バレンタイン、前日。


「ねぇ、こはるはどうすんの?」

香澄がにやりと笑いながら、椅子の背にもたれかかった。

「悠くんにチョコ、渡すの?」


私はペンを止めた。

ノートの端に描いた“月”の落書きが、インクのにじみでゆらめく。


「……別に、そういうんじゃないし」

「えー? またそれ? 昨日だってチョコ見てたとき、なんかぼーっとしてたよ?」

「ただ疲れてただけ」


香澄が机に肘をついて、じっと私の顔を覗き込む。

「ねぇ、もしかして“あの店”の職人さんがタイプだったとか?」

「ち、違う!」

思わず大きな声を出してしまい、周りの友達がクスクス笑った。


香澄が肩をすくめる。

「まぁいいけどさ。でも、あのチョコ、なんか不思議だったよね。味とか……雰囲気とか」

「……うん」

私の中に、あの“金粉の月”がふっと浮かぶ。

口の中で溶けた瞬間、誰かの声がした気がした――

“溶けていくのは、境界線だよ”。


なのに、どこが“境界”だったのか、思い出せない。

まるで、夢の中の会話みたいに。


「放課後さ、もう一回行ってみない?」

香澄の提案に、私は少し考えてからうなずいた。

「うん……いいかも。ちゃんと味、確かめたい」




夕暮れの渋谷。

昨日よりも風が冷たい。

あのチョコレート店のガラス扉を開けると、昨日と同じ甘い香りが迎えてくれた――けれど。


厨房には、誰もいなかった。

代わりに、白いコック帽の店員がカウンターに立っている。


「いらっしゃいませ」

笑顔でそう言った彼女に、香澄が尋ねる。

「昨日ここにいた職人さん、今日はいないんですか?」

「職人……ですか?」

彼女が少し首をかしげた。

「昨日は私ひとりでしたけど」


「え?」

香澄と顔を見合わせる。


「でも、テンパリングしてた人が――」

私の言葉に、店員は少し笑って首を振った。

「うち、店内での実演はやってないんですよ。安全上の理由で」


心臓が、またひとつ脈打つ。

昨日確かに聞いた、あの音。

テン、テン、テン――。


香澄が肩をすくめた。

「もしかして、こはる、夢でも見てたんじゃない?」

「……かもね」


私は笑ってみせた。

けれど、ショーケースの奥に並ぶトリュフの一つに、目が止まった。


金粉で描かれた“月”の模様。

昨日、手のひらで溶けたあのチョコと、まったく同じ。


「これ……昨日もあったよね?」

「ん? そうだっけ?」

香澄が首をかしげた瞬間、そのチョコの表面に――

淡く“欠けた月”が浮かんだ気がした。


ドクン。


鼓動が、また早くなる。

私の中で、昨日の声が囁く。


――“境界線は、まだ溶けきっていないよ”。


「……こはる?」

香澄の声が、少し遠く聞こえた。

私はゆっくりと視線を戻す。

ショーケースのチョコは、何事もなかったように並んでいた。


「ううん、なんでもない。……ちょっと、寒いね」

「そうだね。あったかいの飲もっか」


店を出ると、ガラスの外の夜が静かに沈んでいく。

街の光が反射したショーウィンドウの中で、

私の瞳の奥の“月の影”が、昨日より少しだけ大きく揺れていた。

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