第9話 溶けていく鼓動
放課後。
チャイムが鳴ると同時に、ざわめきが廊下に溢れ出した。
私は少し遅れて教室を出る。心の奥で、まだ昼の出来事がざらついていた。
「ねぇ、帰りチョコ食べてかない?」
香澄が制服のポケットから小さなミラーを出して前髪を直しながら言った。
「この前オープンした店、知ってる? 渋谷駅の近く。めっちゃ映えるらしい」
チョコレート。
甘い響きのくせに、なぜか胸の奥をひやりと撫でていった。
でも――普通に笑える自分を確かめたくて、私はうなずいた。
「うん、行こっか」
夕方の渋谷。
交差点の人波を抜けると、空気にほのかにカカオの香りが混じっていた。
香澄が指さした先には、小さなガラス張りのチョコレート専門店。
扉を開けた瞬間、やわらかな熱気と金属の音が包み込んだ。
――テン、テン、テン……チャッ、チャッ。
奥の厨房で、職人がテンパリングをしている。
溶けたチョコをステンレスの台の上に広げ、ヘラで静かに返していく音。
リズムが一定で、まるで心臓の鼓動みたいだった。
「かわいい~! 見て、このトリュフ!」
香澄がショーケースに顔を寄せる。
私はその横で、音に耳を傾けていた。
テン……テン……テン……
――ドク、ドク、ドク。
音が重なっていく。
テンパリングと私の鼓動が、少しずつ区別できなくなっていく。
「こはる?」
香澄の声が遠くなる。
ガラスの向こう、チョコを混ぜる職人の腕がゆっくりと動くたび、
銀色の台に“月”のような光が反射して揺れた。
その光が、一瞬だけこちらを見た気がした。
視界の端で、ショーケースの中のマカロンに黒い影が落ちる。
目を凝らすと、それは薄く欠けた“月”の形をしていた。
――昼の月も、君を見ているよ。
Kのメッセージが、脳裏に響く。
胸の鼓動が速くなる。テンパリングの音も速くなる。
音が、混ざる。溶ける。
「……やめて」
自分でも聞こえないくらいの声で呟いた。
すると、テンパリングの音がぴたりと止んだ。
職人がこちらを向く。
帽子の下の顔は、光の加減で見えない。
ただ、その唇だけが――微かに笑った気がした。
「お待たせしました。試食、いかがですか?」
柔らかな声が響く。
差し出されたのは、小さな丸いチョコ。
表面には、金粉で描かれた“月”の模様。
私は息をのむ。
香澄が嬉しそうに受け取って、私にもひとつ差し出した。
「ほら、こはるも!」
手のひらに乗せた瞬間、チョコがじんわりと溶けていく。
温度が、鼓動と同じ速さで。
――ドクン。
頭の奥で、誰かが囁く。
「溶けていくのは、境界線だよ」
思わず顔を上げると、ガラス越しに“職人”の姿が消えていた。
ステンレスの台の上には、黒く滲む月の影だけが残っていた。
「……こはる? 大丈夫?」
香澄の声が現実に引き戻す。
私は微笑んで首を振った。
「うん。なんでもない。ただ――ちょっと、甘すぎるね」
口の中で溶けたチョコは、なぜかほんの少し、苦かった。
そして、店を出るとき。
ショーウィンドウのガラスに映った自分の瞳の中で、
小さな“月の影”が揺れていた。
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