第8話 教室に落ちる月の影
翌朝、目覚ましの音が遠くに聞こえた。
体が重い。夜中の出来事が頭の奥に張り付いて、眠った気がしない。
「こはるー、朝ごはんできてるわよー!」
母の声が階下から響いた。
私は布団の中で一度だけ深呼吸して、無理やり体を起こす。
制服に袖を通すと、現実が少しだけ形を取り戻した。
でも――机の上に置きっぱなしの《The Moon》のカードが視界に入る。
昨夜のことは、夢じゃなかった。
リビングに降りると、父は新聞を広げ、母はトーストにジャムを塗っていた。
テレビのニュースでは、また渋谷の映像が流れている。
“昨夜、スクランブル交差点付近で一時騒然となり――”
心臓が一瞬止まった。
でも、画面には特に“黒いパーカー”の話は出てこない。
「こはる、また夜遅くまで起きてたでしょ? 目の下、すごいクマ」
「うん……ちょっとね」
母の言葉に曖昧に笑ってごまかす。
トーストをかじる味も、まるで他人の舌で感じてるみたいだ。
学校に着くと、いつもの喧騒。
昇降口に漂う消毒液の匂い、チャイムの音、友達の笑い声。
すべてが“普通”の風景のはずなのに、昨日までとは何かが違って見えた。
「おはよー、こはる!」
廊下の向こうから香澄が手を振る。
その笑顔に、少しだけ救われる。
「昨日、マジでヤバかったね。あのK、どこまで逃げ足速いの?」
「ほんと。それにしても、途中でいきなりいなくなるとか……」
香澄が身を乗り出して小声になる。
「ねぇ、あのとき“誰かに話しかけられた”とか言ってなかった?」
「え……うん。ちょっとだけ、変な占い師に」
「占い師? 渋谷の?」
「そう。でも……いなくなっちゃった。幻みたいに」
香澄の目が少し丸くなる。
「うわ、それ絶対ヤバいやつ。……でも、こはる、なんか昨日から顔つき変わったね」
「そう?」
「うん……なんか、“追われてる”っていうより、“何か探してる”顔してる」
心臓が一瞬だけ跳ねる。
まるで、彼女の言葉がKと同じ意味を持っているみたいに。
昼休み。
教室の窓から差し込む光が、白く床を照らしている。
机に突っ伏していた頭を上げると、窓の外に薄い月が見えた。
昼の空に浮かぶ、ほとんど透明な月。
「……また、月か」
ぼそっと呟くと、隣の席の健太が顔を上げた。
「え、なに? 月? 占いでもすんの?」
「ううん、なんでもない」
軽く笑ってごまかす。
健太はパンを頬張りながら、スマホをいじっている。
「そういや、昨日の夜のニュース見た? 渋谷の交差点で停電しかけたらしい。
一瞬だけ全部の信号止まったって」
「……え?」
「な、なんか不気味だよな。誰かが操作してたとか噂になってる」
心臓が、ドクンと鳴る。
――あのタイミングで。
Kの姿が映ったのは、まさにスクランブル交差点。
まさか、あれが原因?
放送委員の声がチャイムと一緒に鳴り響く。
「次の授業、教室移動だってー!」
クラスメイトたちがざわざわと立ち上がる中、私はひとりだけ椅子に座ったままだった。
ふと、机の上にノートを開く。
ページの隅に――いつの間にか、小さな“月”のマークが鉛筆で描かれていた。
自分が描いた記憶はない。
でも、それは確かに“私の筆跡”だった。
「……どういうこと?」
その瞬間、スマホが震える。
画面を見た瞬間、息が止まった。
【K】からの新しいメッセージ。
【K】昼の月も、君を見ているよ。
その一文の下に、送信時刻――12:34。
私が“月”を見上げていた、まさにその瞬間。
手が震える。
教室の喧騒が遠ざかる。
まるで、世界の音がフェードアウトしていくみたいに。
窓の外の薄い月が、じっとこちらを見下ろしていた。
その輪郭が、少しずつ黒い影に染まっていく。
そして――
私の中の“もうひとり”が、微かに笑った気がした。
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