第7話 月の影とKとわたし

玄関のドアを静かに閉めると、家の中の温度が肌に戻ってきた。

渋谷のネオンの残像が、まだ瞼の裏にちらついている。


「ただいまぁ」


返事はない。

リビングからはテレビの音がかすかに聞こえる。父が寝落ちする寸前のニュース番組の声だ。

母はもう寝室にいるのだろう。時計の針はすでに深夜0時を回っていた。


私は靴を脱ぎ、そっと階段を上がる。

家の静けさの中で、自分の足音だけがやけに響く。

部屋に入ってドアを閉めた瞬間、ようやく息を吐いた。


ポケットの中のものを取り出す。

――《The Moon(月)》

カードの銀の縁が、デスクのライトに照らされて鈍く光った。


「“真実は影に隠れている”……か」


机の上にカードを置き、スマホを開く。

【K】からの最後のメッセージが、まだそこに残っていた。


【K】見つけた? それとも――見つけられたのは、君のほう?


見つけられたのは、私のほう。

占い師の言葉とKのメッセージが、頭の中で溶け合う。

まるで、同じ何かを指しているみたいに。


ソファに腰を下ろして、今日の追跡を思い返す。

Kは、私たちの動きを完全に読んでいた。

角を曲がるタイミングも、人の波の切れ目も――すべて。


「……悠のルート、香澄のルート、健太の位置……全部、分かってた?」


もしKが私たちの作戦を知っていたなら、

それは誰かが情報を漏らしているということ。

あるいは――私自身が。


「追っているのは“彼”じゃない、“あなた自身”……」


占い師の言葉を思い出した瞬間、心臓が強く脈打った。


まさか。

Kは、私の“中”にいる――?


「そんなはず……ない」


思わず呟いて首を振る。

でも脳裏に浮かぶ、いくつもの奇妙な感覚。

見知らぬ街角での“既視感”。

Kが現れる直前に胸がざわつく不安。

そして――今日見たあの笑顔。

あれは、鏡の中の自分と同じ笑いだった。


「……まさか、ね」


スマホの画面が暗転し、黒い反射面に私の顔が映る。

その影の奥で、一瞬だけ――“誰か”が笑った気がした。


「っ……!」


思わずスマホを放り出す。

階下から父の咳払いが聞こえ、我に返る。

“落ち着け、聞こえるぞ”――そんな気配を感じて、私は息を殺した。


静寂の中、壁時計の音だけがカチ、カチと響く。

そのリズムが、妙にずれて聞こえた。


Kは誰? なぜ私を挑発するの?

占い師、タロット、そして“月”。

――月は「幻想」や「無意識」を意味する。

つまり、真実は“意識の外側”にある。


ならば、Kは現実に存在しない“私の影”なのかもしれない。


「……無意識の、影……」


その瞬間、机の上の《The Moon》がふっと震えた気がした。

風もないのに、月のカードが光を吸い込むように揺れた。


スマホが震える。

画面に浮かぶ文字――【K】。


心臓が跳ね上がる。

恐る恐る開くと、そこに一行。


【K】ようやく、気づいたみたいだね。

月が満ちる夜、君は“もうひとりの自分”に会う。


メッセージが消える。

代わりに現れたのは、渋谷スクランブル交差点のライブ映像。

夜の街の光の中、中央に黒いパーカーの人影が立っていた。


「え……K?」


小さく呟いた声が、部屋の中で吸い込まれる。


息を呑んで振り返る。

部屋の窓から差し込む月の光が、床の上に白く伸びている。

その光の中で、《The Moon》のカードがかすかに反射した。


外では、父の寝息とテレビの残り音。

この家の“日常”が、確かにそこにある。

けれど私の中の何かが、もう戻れない場所へ踏み出していた。


――月の光が照らすのは、真実か、幻か。


夜が、また静かに動き出した。

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