第3話 渋谷の風は、まだ冬の匂いだった

放課後の坂を歩くと、まだ冬の名残りが空気の底に残っていた。夕日で表面だけほんのりあったまってるのに、ちょっと油断すると指先が冷える。

渋谷ってもっとキラキラして、年中お祭りみたいな街だと思ってたのに――実際は、こんなふうに風が冷たい日もあるんだ。


「こはる、手ぇ冷たそう。カイロいる?」

香澄がポケットから、カイロを出してくる。


「こんなときだけ女子力出してくるのやめて」

そう言いつつも、押し返すほどの元気はなくて、ありがたく受け取る。

カイロを握る指先は震えてた。寒さだけじゃなく、たぶん不安のせいでもある。


――本当に行くの? 駅前まで。


――もしまた、“あの背中”を見たら。


胸の奥で、問いばかりがこだまする。


「おーい、置いてくぞー!」

少し前を歩く健太が振り返って手を振る。その向こうでは、悠がポケットに手を突っ込みながら、信号のカウントをぼんやり眺めていた。


いつもの放課後なのに。

いつものメンバーなのに。

景色だけが“事件の色”を帯びて見える。


「なぁこはる」

信号待ちの間、悠が横目で私を見る。

「怖いなら、無理に来なくても良かったんだぞ?」


「別に怖がってないし」

反射で返す。けど、言葉はちょっとだけ震えた。

悠は目をそらしてため息をつく。


「強がり。そういうとこ昔から変わんねぇよな」


「なっ、昔からって何よ。そこまで仲良かった記憶ないんだけど!?」


「登校初日、道に迷ってたお前を俺が――」


「それは忘れてください!」


思い出したら余計に恥ずかしくなって、私はその場で飛び跳ねたくなった。悠は笑いもせず、でも目だけは少し優しかった。ずるい。


信号が青に変わる。

雑踏がまた動き出す。

ネオンが濡れたみたいに光り始める。


渋谷駅前は、相変わらず人の波でいっぱいだ。


そして――

その波の中に、私は目を奪われた。


黒いパーカー。フード深め。

歩き方まで、見覚えのある“あの影”に似ていた。


「っ……!」


無意識に、一歩踏み出す。

冷たい風がスカートを揺らす。

カイロの温もりは、もう意味を失っていた。


でも、すぐに伸びてきた手が腕をつかむ。


「動くな」

低く、真剣な声。振り向くと朝霧巡査がいた。


「君たちは見てるだけ。約束はまだ生きてるよね?」


私は唇を噛んだ。

その間にも、パーカーの人物は人混みに紛れようとしている。


――追いたい。

――確かめたい。

――でも怖い。


感情が全部いっぺんに走り出して、心臓だけが忙しく跳ねた。

見失いたくないのに、足が一歩も出ない。


そのとき、香澄が私の袖をそっとつまんだ。


「無理しないで。もしそいつがほんとに“K”でも……こはるが泣くのは嫌だよ」


ああもう。

なんでみんな、やさしいんだ。


やさしいくせに、事件は止まってくれない。

恋だって待ってくれない。

全部が、私を置いて走っていくみたいだ。


風が吹く。

冬の匂いがした。


――追うのは、きっとこれからだ。


渋谷の街はざわざわしている。

事件も、恋も、まだ終わる気がない。


私は深く息を吸った。


「……行くよ。ちゃんと全部知るまで」


その答えは、凍える風の中でも確かだった。

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