時を紡ぐ図書館

レブラン

時を紡ぐ図書館

 私が「時の図書館」を見つけたのは、大学受験に失敗して人生に絶望していた十八の春だった。

 商店街の奥、いつも通る道のはずなのに、その日だけぽっかりと現れた古びた建物。看板には「時を紡ぐ図書館」と書かれていた。


 扉を開けると、カランコロンとベルが鳴った。

 店内は薄暗く、天井まで届く本棚がいくつも並んでいる。だが普通の図書館と違うのは、本棚に並ぶのが本ではなく、小さな砂時計だったことだ。


「いらっしゃい」


 カウンターから声がした。そこには二十代くらいの、不思議な雰囲気を纏った女性が座っていた。長い黒髪と、どこか人間離れした美しさを持つ人だった。


「あの、ここは何の店ですか?」

「見ての通り、図書館よ。ただし、ここで貸し出すのは本じゃなくて『時間』」


 女性は微笑んだ。


「時間?」

「ええ。あなたの過去の時間を、もう一度体験できるの。やり直すんじゃない。ただもう一度、その時を生きられる」


 私は言葉を失った。


「信じられないでしょうね。でも、あなたは今、とても後悔しているでしょう? あの時こうしていれば、って」


 図星だった。受験前、もっと勉強していれば。もっと真面目に生きていれば。


「一つだけ、好きな時間を選べるわ。ただし条件がある」


 女性は立ち上がり、本棚に手を伸ばした。


「その時間を体験したら、あなたは必ず前に進まなくちゃいけない。過去に囚われちゃだめ。それを約束できる?」


 私は本棚の前に立った。無数の砂時計が、それぞれ異なる色の砂を湛えている。


「これ、全部私の過去なんですか?」

「そうよ。あなたが生きてきたすべての瞬間がここにある」


 手を伸ばすと、砂時計が微かに光る。不思議と、それがいつの記憶なのか分かった。

 小学校の運動会。中学の文化祭。高校の修学旅行。友達と笑い合った放課後。家族で行った海水浴。

 そして、私は一つの砂時計を手に取った。

 薄紫色の砂が詰まったそれは、中学二年生の冬。祖母が亡くなる一週間前の記憶だった。


「それでいいの?」


 女性が優しく聞いた。


「はい。祖母に、ちゃんとお礼が言いたいんです」


 当時の私は反抗期で、祖母の優しさを素直に受け取れなかった。いつも愛情を注いでくれた祖母に、一度も「ありがとう」を言えずに別れてしまった。


「分かったわ。では、行ってらっしゃい」


 砂時計を逆さにすると、砂がさらさらと落ち始めた。

 気がつくと、私は中学生の自分に戻っていた。

 実家のリビング。テレビからは懐かしいアニメの音。こたつの向こう側には、祖母が座って編み物をしている。


「結衣、宿題は終わったの?」


 祖母の声。忘れていた、この優しい声。


「う、うん……」


 私は涙が出そうになるのを堪えた。会いたかった。もう一度会いたかった。

 その日から一週間、私は当時の自分として過ごした。ただし今の記憶を持ったまま。

 学校から帰ると、祖母は必ずおやつを用意してくれた。


「はい、結衣の好きなどら焼き」

「……ありがとう、おばあちゃん」


 素直に言えた。祖母は少し驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。

 夕食の手伝いをした。一緒にテレビを見た。祖母の昔話を、今度は真剣に聞いた。

 そして最後の日。


「おばあちゃん」

「何?」

「私、おばあちゃんのこと大好き。今まで育ててくれて、本当にありがとう」

 祖母は驚いた顔をした。それから、目に涙を浮かべて私を抱きしめてくれた。

「結衣も大好きよ。いい子に育ってくれて、おばあちゃんは幸せだよ」


 その瞬間、景色が歪んだ。

 気がつくと、図書館に戻っていた。

 頬を涙が伝っていた。手には、もう砂の落ち切った砂時計。


「おかえりなさい」


 女性が微笑んでいた。


「どうだった?  後悔は消えた?」


 私は首を横に振った。


「いえ、後悔は消えません。でも……」


 砂時計をカウンターに置いた。


「でも、前を向けそうです。祖母は私を愛してくれていた。それがちゃんと分かったから」

「そう。それならよかった」


 女性は砂時計を受け取ると、元の棚に戻した。


「過去は変えられない。でも、過去を知って今を変えることはできる。それを忘れないでね」

「はい」


 私は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「頑張ってね、結衣さん」


 扉を開けて外に出ると、もう夕暮れだった。

 振り返ると、そこには古びた建物の跡だけがあった。

 扉を開けて外に出ると、商店街にはいつもと変わらない夕暮れの景色が広がっていた。

 振り返ると、そこにはもう何もなかった。古びた建物も、看板も。ただ、普段通りの商店街の風景だけ。

 本当にあったのだろうか。

 私は頬に残る涙の跡を拭った。

 でも、胸の温かさは確かにある。祖母の声も、抱きしめてくれた腕の感触も、まだ残っている。


「行こう」


 誰に言うでもなく、呟いた。

 春の風が、背中を押すように吹いた。

 私は一歩、前に踏み出した。


 <fin>

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