第11話 世界の隣り

 限られた人生の貴重な時間を、僕は新聞を配ることに使う。


 子どもの頃に夢見ていたことを、今僕は出来ているのか?



 今日も僕は新聞を配る。


 そこは、生きていない世界。



《速報・ガザの子ども死亡一万六千人超と保健当局 》



 あの偶然はもう二度と起こらないから

 あの恋は悲しいんだ。



 僕は今日も新聞を配る。 


 静寂――


 生きていない世界の闇は、いつも静寂の中にある。


 諦め――


 悲観――


 絶望――


 辛いビジョンばかりが頭に浮かぶ。



 僕の精神は病んでいる。


「そう感じるんだ」



 ブッダ:

 孤独と静けさを愛し

 恐れと罪から解き放たれ

 真理の喜びを知る


             スッタニパータ 慚経

 


 人が生きている世界の一隅で、何もしない時間。それはまるで無機質なコンクリート剥き出しの墓場。


「僕は病気だ・・」


 ぼやけた思想。僕はいつだって妥協している。


 なのに何でこんなに生きづらいんだ?



 美しい庭園や池はほとんどなく

 深い薮や険しい山は多いように

 人間の世界に生まれ変わる人はほとんどなく

 それより遥かに多くの人々が地獄に生まれ変わる。


                アングッタラ・ニカーヤ


 

「世界中の生きとし生けるものが幸せでありますように」

 世界の片隅で、あの子は今日も祈っている。



 一九六八年四月四日、テネシー州メンフィスのモーテルで、キング牧師は狂った白人至上主義者によって殺された。

 彼はただ、当たり前の、人間としての当たり前を望んだだけだった。

 それで、彼は殺された。


 そんな世界の隣りに今も僕は生きている。



《アメリカでは近年、銃乱射により年間四万人以上が死亡し・・》

 


 いつものように何の感慨もなく配達が終わる。


 世の中は、圧倒的にアホの方が多いということを、私は大人になるまで知らなかった。

 人生の致命的なミス。



 駐輪場の一隅。野良猫に今日も餌をやる。

 

 餌は食べるが、猫はなかなか僕を愛してくれない。人間のように――。


「いったい、幸せはどこにあるんだろうか?」


 僕は今も人生を彷徨っている。



 ブッダ:

 たとえば見た目も香りも味もすばらしいが、

 毒の混ざっている飲み物がある。

 飲めば死ぬか、死ぬほどの苦しみを受ける。

 そのようにこの世界のものを愛し、

 それらは美しく、

 自己であり、

 消えることはないと考える者は、

 欲望し執着して、苦しみを得る。


                 相応十二ー六十六



 死ぬなら夏がいい。冬に死ぬのは惨め過ぎる――。



 みんな戦っている。何かから振り落とされないように。みんな必死で、化粧して、おしゃれして、自分が不幸に見えないように偽装して、笑って、粉飾して、見栄を張って、背伸びして、こけおどしのために学歴をつけ、経歴をこさえ、金を貯め、ネットでいいねをもらって、むかつく奴とも繋がって、自分はまともだと、自分は、幸せなんだと自分に嘘をついて、自分にそう言い聞かせて、自分よりも下の人間を見下して、馬鹿にして、いじめて、冷笑して、理論武装して、自分は、特別な人間なんだと、強い人間なんだと、不幸な人間なんかじゃないんだと、自分に暗示をかけて、自分を誤魔化して、心に麻酔を打って、みんな戦っている。


 その嘘がバレるその日まで――。

 

 このクソみたいな世の中が、消滅するその日まで――。

  


 ブッダ

 感ずるものはすべて

 苦の領域のものである


              相応部一二ー三二


      

「僕は病気だ」


 僕には治療が必要だ。


 でも、どういった治療かは分からない――。



 今から考えれば、ただの気違いだったあの哲学者は、今も生きている。

「死にたいんじゃなかったのか?」



 冷えた闇の中をバイクは走る。そこは生きていない世界。


 今日も、頭の中に、雑音を刻んだアナログな、あの奇妙なインストゥルメンタルの曲が流れている。


 今日は風がやたらと冷たい。


 冷えているのは体なのか心なのか――分からない・・。



 独り歩み  

 怠ることのない聖者とは

 非難と賞讃とに心を動かさず

 音声に驚かない獅子のように

 網に捉えられない風にように

 泥水に汚されない蓮のように

 他人に導かれることなく

 他人を導く人であれ


            スッタニパータ

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