第10話 馬鹿
生きているってことを複雑に定義したら、僕は多分、生きていないに分類されると思う。
今日も彼は新聞を配る。今月は一件の止めが入っただけ。後は何も変わらない。
「・・・」
新聞を配るふとした瞬間、誰も傷つかない世界を夢想する。
弱者を憐れむ人々。競争を勝ち抜け、安全な場所から弱者を憂うやさしさ。そんなやさしさが一番人を傷つける。
みずからが幸せになろうと思って
そのために幸せを求めている他人に対し
暴力をもって害するならば
その人は幸せを得られない。
ダンマパダ
「・・・」
先月も浅見さんと小林さん、二件の止め。年々確実に発行部数は減っている。
景気のよかった時代は十万円あったという、年二回の寸志は今はもうない。
昔は五万キロで買い換えていたバイクも、今はいつとまるか分からないオンボロばかりだった。
新聞の受容は年々減り続け、閉鎖、廃業をする販売所は増え続けている。現在その数は減少の一途を辿り、新聞販売所のエリアは統合されつつある。
「・・・」
行き場のない社会のはみ出し者たちの行き場所は、ここ以外にこの国にあるのだろうか――。
――多分ない。
ブッダ:
愛した人であっても
死んでしまえば再会することはない
夢で出逢った人に
目覚めてのち会うことがないように
スッタニパータ 老経
サラリーマンが、駅前で泥酔して眠っている。週末によく見かける光景。
「・・・」
すべてに弛緩した、死んだような姿。
「・・・」
本当に死んでいるのは、本当は生きている世界の方なのかもしれない。
《ガザでは、今日もイスラエル兵による虐殺が続いており――》
そこは僕たちと同じ地続きの世界。
私たちは常に、その存在の根源的問いという不安の中にいる。
この世界を覆う虚無と絶望――。みんな見ているはずのその光景を、誰も彼も知らないと言い張り、頑なに、この世界は美しいのだと思い込もうとするその嘘から逃れるために人は働き、その金でせっせと小さな快楽に身を任せ、麻薬中毒患者よろしくどこまでも現実から逃避しながら、しかし、それで逃れられるはずもなく、結局は同じ苦しみの中をグルグル回り続けながら、それに慣れ、堕落し――、そして、馬鹿になっていく。
「馬鹿にならなきゃこんな世界生きていけやしない」
「生きてなんかいけやしない」
それは生きているものの世界。
その見るからにバカバカしい世界から逃げ出して、逃げ出して、命からがら辿り着いた世界で、今にもとまりかねないボロボロの原付バイクに乗って僕は新聞を配る。
そこは生きていないものの世界。
明日なんか来なくていい。世界は暗いままでいい。だから、もう二度とあの汚い世界に僕を連れて行かないでくれないか。やっと逃げ出したあの世界に、もう絶対に連れて行かないでくれないか――。
たとえそれが、生きているものの世界であっても――、そして、今生きている世界が生きていないものの世界であっても――。
女子供玉砕してもらいたし
女子供自発的意思において
皇軍と共に戦い
生死苦楽を共にするなれば
誠に大和民族の気魂は
世界及び歴史に示されることが願わしい
佐藤賢了
サイパン戦発掘米軍録音記録
今日もギザギザに光る歯車が、僕の目の中で回っている。溜まらな頭痛と吐き気。
「僕は狂ってなんかいない」
狂っているのは世界の方だ。
新聞を配る僕。
「僕を傷つけたあいつらは、いつ頃地獄へ行くのだろうか・・」
僕はいつだって傷ついている。
耐えがたいほどに・・。
この狂った世界にあって“正しさ”を求めるというのはそれ自体狂った行為なのではないか。
中島らも
若い頃、尊敬していたあの人たちは、ただの馬鹿だった。
なんてくだらない世の中なんだろう。反吐が出るほど下らない。最近、心底そう思う。
この世界を生きるには、心底バカになるしかない。
世俗のことがらに触れても
その人の心が動揺せず
憂いなく
汚れを離れ
安穏(あんのん)であること
──これがこよなき幸せである。
スッタニパータ
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