第3話 眠り

《児童八人が犠牲になり、十五人が重軽傷を負うという凄惨な事件を引き起こした宅間守が、獄中で人生五度目の結婚をしたその相手のA子さんは、その理由を訊かれ、宅間さんに贖罪の気持ちを持たせて、魂を救済させたいからと答えた――》


 夜、僕はもう一度眠る。一日はいつもあっという間に過ぎていく。今日も何もなく、ただ、無駄な時間だけが過ぎて行く。

 それだけだった。


 目を瞑ると闇が見える。


 このまま、眠るように死んでいけたらどんなに幸せだろうか・・。


 眠りは、僕を甘美な死へと誘惑する。



 ――誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?――

          

               自殺前の芥川龍之介



《秋葉原通り魔事件の被告加藤智大の死刑が執行されたことを・・》



 暗い部屋。目を瞑ればまたあの明日が待っている。それは生きていない世界――。


 薄い夢が、現れては消えて行く。寝ているような起きているような世界を僕の意識は漂っている。


 

 一切の生きとし生けるものは

 幸福であれ

 安穏であれ

 安楽であれ


          スッタニパータ



 ―――



 そして、僕は再び目覚める。


 そこは生きていない世界。



「心の底から苦しい・・」

 

   イスラエルによる虐殺の最中、ガザ・パレスチナ人男性の呟き



 最近、眠っても眠っても寝た気がしない。


 なんとなく滲む不快さが全身を倦怠させる。常態化したその倦怠が、もはや僕そのものになろうとしている。



《「他人のせいにするところは元夫にそっくりだと思った」三十六人が死亡し、三十三人が重軽傷を追った京都アニメーション放火殺人事件で、犯人の青葉被告母親の供述。》



 意味のない世界に、意味を見出さなければならない人生――。



 繰り返される一日。


「・・・」

 今日も何も言わない夜空。


 星と月だけが輝いていた。


 そこは生きていない世界。



 ブッダ:

 世間は虚しさの上に築かれている

  

                相応部一ー六七



《セルフネグレクト、生きることに無気力に、自ら死にゆく若者たち》


 朝日新聞、今日の注目記事。



 今日も生きていない世界は泣いている。なんだかそう感じるんだ――。


 子どもの頃大切にしていたあのおもちゃは、いつの間にかなくなっていた。あれはいつ、どこへ行ってしまったのだったろうか。まったく記憶がない。

 あの時の僕も、おもちゃと一緒にどこかへ行ってしまったのだろうか・・。

 今の僕も、いつの日かどこかへ行ってしまうのか――。



 気づけばまた僕はいつもの場所で新聞を配っている。昨日と同じ、いつもの時間、いつものルート、いつものポスト。


 それは毎日続く。


 また闇の中に、いつもの、あの雑音を刻んだアナログで、奇妙なインストゥルメンタルの曲が流れている。



 眠れない老人たちが今日も闇の中を彷徨い歩く。


 生きているものの世界で生きられないものたちの部屋の明かりが、今日も闇の中に孤独に浮かび上がる。



 そこは生きていないものの世界。

 


 生まれた時から、一生働かなくてもいい金を持っている奴もいる。 

 今この瞬間、安穏と寝ている奴もいる。


 有閑階級は、いつだって平和だ。


 そう、神さまは残酷で、世界はいつだって理不尽だ。


「そんなこと、知っていたさ」

 

 だから、何もいらない。だから、せめてそんな奴らに、僕と平等な苦しみを与えてくれないか――。



 怨みをいだいている人々のあいだにあって

 われは人を怨むこと無く

 いとも楽しく生きて行こう。

 怨みをもっている人々のあいだにあって

 われは怨むこと無く暮らそう。


                 ウダーナヴァルガ

 


 深夜はすべての秩序がフリーになる。ルール無用。スピードは超過し、信号は無視され、道路は逆走される。無法地帯。



「お前は俺に何も勝てないな」

 中学三年の夏、宮沢君は僕に言った。


 いつから僕は負け組になったのだろうか・・。


「生まれた時?」


 カウンセリングなんか受けたって、何も治りはしない、格差社会の産み落とした最底辺に生きる負け犬のコンプレックスに根差した劣等感による抑鬱。


 そんな自覚だけはある。



 生まれによって賤しい人となるのではない。

 生まれによってバラモンとなるのではない。

 行為によって賤しい人ともなり

 行為によってバラモンともなる。


                  スッタニパータ



 新聞販売所の店長はまだ三十代後半だが、髪の毛は半分以上が白髪だった。

 そういえば最近、事務所で店長の姿を見ない。

 


 自宅に放火し、母と幼い実の妹二人を殺した少年当時十六歳は――、

 少年院を出た後――、

 大学を卒業し、就職。

 今は家庭を築き平穏な生活をしている――。



 生きている世界は、いつもやさしい悪魔が笑っている。


 一人でいるのは辛いけど、みんなといてもなんだか辛い。それが僕が生きている世界。


 いずれ、決定的な何か大きな破綻を予感しながら、でも・・、それでも、結局、僕は今日もこの世界で生きている。



「すべて生じたものはいずれ消え去る」

「すべて生じたものは虚ろである」

「すべてのものに不変の本質はない」


          小部 ダンマパダ 二七七―二七九



 今日も無事、新聞を配り終える。


 達成感はない。ただ終わった。それだけ――。


「・・・」

 世界は今日も何も言わず沈黙していた。

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